北海道を守った陸軍中将の孫、樋口隆一さんが丹波篠山へ(市長日記R2.10.22)

更新日:2020年10月23日

令和2年10月22日

陸軍中将「樋口季一郎」(1888~1970)さん。

誰かと言うと・・・第二次世界大戦中にナチスに迫害されたユダヤ難民に「命のビザ」を発給した外交官杉原千畝さんは有名ですが、同じようにユダヤ難民を救いました。

1938年3月、ナチスから逃れて旧満州との国境に近いソ連領オトポールに着いた多数のユダヤ人は満州国政府に通過を拒まれ酷寒の地に留め置かれました。当時関東軍ハルピン特務機関長だった樋口さんは、満州国外交部にビザ発給を求め2万人ともいわれるユダヤ人が満州国から大連、上海、そして米国などに逃れることができたといわれています。

 

ポーランド駐在武官も務められたことがあってユダヤ人の境遇が分かっていたし、戦前の欧州では差別意識もあってアジア人に家を貸すのはユダヤ人で、彼らが困っているのを助けるのは当然と考えたものです。人道主義にもとづき行動する軍人であったのです。

 

また、軍人として千島列島東北端の占守島(シュムシュ島)の戦いの指揮をとりました。1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾後もソ連は樺太や千島で侵攻を続け、8月18日未明ソ連軍は占守島への上陸をはじめました。当時、ソ連は樺太から北海道まで占領する意図をもっていたといわれます。軍指令官として指揮をとっていた樋口さんは自衛のため、「断固反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と命令し、ソ連軍に反撃、この抵抗によって、ソ連軍の占守島や北海道の占領を阻止したのです。

 

このような歴史に残る活躍をされた樋口季一郎さんは兵庫県南あわじ市生れですが、鳳鳴義塾(現在の篠山鳳鳴高校)出身なのです。各地から優秀な軍人志望者が集まる名門校でした。

 

そのため樋口季一郎さんの孫にあたる樋口隆一さんが、先日丹波篠山市長を表敬訪問していただいたのです。隆一さんは大学教授でバッハなどの西洋音楽の研究で知られ、指揮者としても活躍されてきました。大学を定年後、季一郎氏の本格的な調査をはじめられました。

 

隆一さんと親交のある小山剛久さん(東岡屋)、季一郎さんと並ぶ陸軍中将小林浅三郎さんの甥にあたる小林弘二先生も同席していただきました。小林浅三郎さんは城北村沢田出身、陸軍中将、支那派遣軍総参謀長で終戦をむかえ、対中華民国停戦調印式に日本代表として出席されています。

 

「当時、丹波篠山の一盆地からキラ星のごとく多くの人材が輩出されました。・・・ぜひ後輩に伝えたい」

「人道主義的な温情の軍人がいたことを多くの人に知ってほしい、今の時代にも参考になるはず」

「領土を奪う問題は過去の話ではない。今もこれからも何時どのように起こるか分からない」

 

など意気投合されていました。

折しも終戦75年、平和で当たり前と考えがちな私たちは、この歴史を忘れてはいけないと思いました。

樋口夫妻が椅子に座られて、著書を手に持たれている。後方に、市長、小山さん、小林さんが並んで立っている。

前列左から樋口隆一さん、奥様、後列左から酒井市長、小林弘二さん、小山剛久さん