涙の市民ミュージカル、ノムさん(野村克也さん)のご逝去にまた涙(市長日記R2.2.12)

更新日:2020年03月24日

令和2年2月12日

2月9日と昨日2月11日に、第9回目となる市民ミュージカル「ヘレンとサリバン先生」が開かれました。

これまで以上に多くの方が見に来ていただき、2日間昼と夜の合計4回の公演でしたが、昼の部は立ち見が出るほど満員、夜の部もいっぱいでした。

内容は感動的で、多くの方が涙を流しました。

これまでの作品は子どもたちの歌や踊り、華やかな衣装で大いに盛り上がりましたが、今回はこれに加えて内容が心打つものとなっており、舞台が終わっても拍手が鳴りやみませんでした。

ヘレン・ケラーは三重苦を乗り越え、世界的な活躍をされ「奇跡の人」と呼ばれていますが、ヘレンは「私はただ一生懸命生きてきただけ」「私に光を当てて頂いたのは50年間ともに歩んだサリバン先生のおかげ」と振り返ります。

サリバン先生の幼少の頃の貧しく孤独な生い立ち、勉強がしたく孤児院から盲学校へ、そしてヘレンの先生となりますが、ヘレンを可哀想な子だとはれ物にされるように接していた家族と対立しながらもヘレンと心を通わせ、普通の子と対等に生きてゆけるよう教育し、支えていきました。

出演された皆さんはもちろん、松本監督はじめ先生方、衣装、音楽、照明など様々なボランティアスタッフの皆さん、本当にありがとうございました。

素人の市民がこんなミュージカルを作れるなんて驚きでもあります。

市民ミュージカルは丹波篠山市の大きな誇りです。

 

感動した心で家に帰りましたが、ニュースを見てびっくり、ノムさん(野村克也さん)がご逝去されました。

私は子どもの頃から野村さんのファンでした。

京丹後から南海ホークスにテスト生として入団、四番キャッチャーとして活躍し、何度もホームラン王、戦後初の三冠王、40才を越えても「ボロボロになるまでやる」「生涯一捕手」とロッテ、西武と野球を続けました。

キャッチャーとして3017試合出場は驚異的です。

いくら活躍しても、当時のパリーグは人気がなく、観客数が少なくて日が当たりません。

「王、長嶋はひまわり、ワシは野に(ひっそり、美しく)咲く月見草」と、語りました。

監督としてもまた、大活躍でした。

南海時代は監督兼選手の時もありました。

その後、弱かったヤクルトを3度日本一、同じく低迷していた阪神、楽天でもその土台を作りました。

弱いものが強いものを倒すため「考える野球」、他球団で使われなくなった選手の長所を見い出して再び活躍させ「野村再生工場」とも呼ばれました。

日本一の名将です。

野村さんが指導をされた方が、今の野球界でも多く活躍されています。

 

子どもの頃に、同じ村の上級生から当時強かった南海を、野村さんを応援しようと教えられ、以降、私も野村さんの行く球団を応援してきました。

ですから私が応援する球団は南海、ロッテ、西武(ここで選手を引退し、あと監督として)、ヤクルト、阪神、楽天と私も渡り歩いたのです。サインをもらったこともあります。

よく甲子園など球場にも行きました。

 

その野村さんの「希望に起き、努力に生き、感謝に眠る」を座右の銘としています。

ありがとうございました。安らかにお眠りください。