丹波篠山から考える「消えたヤマと在日コリアン」(市長日記R3.6.4)
令和3年6月4日
丹波篠山市の細見和之さん(京都大学大学院教授、詩人)、同じく川西なを惠さん(元篠山市人権・同和教育研究協議会事務局長)、丹波市の松原薫さん(「丹波・篠山自主夜間中学」代表)などが、「消えたヤマと在日コリアン」と題する岩波ブックレットを発行され、市役所にお持ちいただきました。
丹波篠山市には、かつて鉱山労働などに従事した在日コリアンが多く暮らしていたのに、そんなことを知る人も少なくなり、また、このことが町誌など公的な記録に一切記されていません。硅石(けいせき)やマンガン採掘でにぎやかだった時代、朝鮮人たちと共に暮した歴史を地域に残していこうと発行されたものです。
私は何となくそんな話を聞いたことがあったのですが、詳しくは知らず、興味深く読ませていただきました。
陸軍歩兵第70連隊の誘致と硅石を中心とした鉱山産業の活況という二つの出来事が戦前から戦中にかけての丹波篠山の発展の大きな原動力となりました。
丹波篠山から陸軍大将まで昇りつめた本郷房太郎と本庄繁をはじめ立派な軍人を輩出しています。
この本郷房太郎の働きかけによって、1908年(明治41年)丹波篠山への陸軍歩兵第70連隊の誘致が実現しました。
住民は手に手に国旗を持って歓迎し、各戸に提灯をつるし花火も打ち上げ、アーチをつくり空前の熱狂的な歓迎ぶりだったそうです。
本郷房太郎は日露戦争で活躍されたことで知られますが、その後戦争の歴史を歩んできた日本は莫大な数の銃、大砲、戦車、戦艦を造り続け、そのために製鉄所拡充のための鉱石やマンガンを必要としました。
市内には良質のマンガン鉱脈、硅石鉱脈が存在したのです。鉄生産のためには溶鉱炉が必要で硅石は耐火煉瓦やセメントの材料となり、マンガンは鉄の原材料となります。
丹波硅石は耐火煉瓦の原料として世界有数の硅石であるとされました。市内の「畑」「村雲」「大芋」などから硅石鉱山が発見され、開発されました。
採掘された硅石は篠山軽便鉄道の篠山町駅や国鉄篠山駅に運ばれ、そこから九州の八幡を中心に全国の製鉄所へと運ばれていきました。
活況を呈した硅石業ですが、鉱山労働力の不足を招き、200人以上の朝鮮人労働者が働いていたと推測されています。
終戦後も採掘は続けられ、1949年(昭和24年)の篠山新聞には丹波硅石が全国生産量の70%を占めると記されています。
その採掘は日本人と在日コリアンが共同で行っていました。
残念ながら朝鮮半島の人々を軽視してきた多くの事実もあるのです。
その後、1959年(昭和34年)頃から始まった北朝鮮への帰還事業や日本経済の不況により硅石産業は終焉を迎え、在日コリアンは多くが京阪神などへ流出されました。
今も筱見や畑地区には坑道や火薬庫が残されています。また、二世、三世の皆さんは今では市の様々な分野で中心的な役割を果たして活躍されている方も多くおられます。
細見さんが通われた篠山小学校には「民族学級」があり、住まわれている上立町の集会場には「民族学校」があったとされますが、『それを知らなかったか、よく分からなかった。しかし、戦後の民族教育の現場となっていたことを誇らしい、次世代に伝えていきたい。』と言われています。
更新日:2021年06月04日