現存する2つのデカンショ節について 1

更新日:2021年10月12日

篠山市内においてデカンショ節の保存と振興に長く携わってこられた圓増浩之さんが地元には曲調の異なる2つのデカンショ節が存在することに注目し、様々な資料を掘り起こしながら今広くうたわれるデカンショ節が生まれた歴史的経緯などを考察しています。
本サイトでは、重要な地域情報であるデカンショ節のデータベースのひとつとして「デカンショ節に関する一考察」を圓増さんの了承を得て掲載します。デカンショ節を歴史的に考察する上でのひとつの問題提起であり、ひとつの意見と考えられます。
読みやすくするため原文を少し訂正していますがご了承下さい。

はじめに

私が、デカンショ節に深いかかわりをもつようになってから、50余年の年月がたった。今日にいたるまで、ひたすらその保存、振興につとめてきた。
その間民謡、民踊については、自分なりに研究してきたつもりであるが地方の民俗行事で、特に一般庶民が唄い、踊っていた盆踊および、労作唄等に関する文献等はそれぞれの土地においてもパンフレット程度で皆無に等しく、それがあっても、つじつまがあわないもの、年代的にありえないことなど、矛盾も多い。その学的考証は類推のほかはないのだが、実はそれが、色々な多くの問題を生んだ原因の一つでもある。

現実に、曲調の異なる二つのデカンショ節が存在する

現在、今篠山で唄われているデカンショ節と、今一つはその元歌であるみつ節の流れのなかにあるデカンショ節(別名を篠山節と呼ばれている)である。後者については1990(平成2)年に民謡家北村法志津氏が元唄を編曲し、篠山町推薦、篠山デカンショ節保存会推薦とした正調デカンショ節の名で今のデカンショ節と組み合わせて唄われているもの(大阪の成世昌平氏吹き込みのテープ)がクラウンから発売され認定されている。その元唄は、本来の意味の元唄ではなく、今のデカンショ節なり踊りのプロローグ的なものであることを、知っていなければならない。
この国で唄われている二つのデカンショ節をよく理解して頂くには、今篠山で唄われているデカンショ節の生まれた背景をよく知っていなければならないため、多くの紙面を割くことを了承願いたい。

伝統文化の変遷

半世紀以上を直接デカンショにかかわりつづけてきたものが、関係書籍、文献等を参考にしながら、デカンショ節、踊り、その背景、周辺を考証するのと、ほとんど直接のかかわりのない人が、それらの文書類を主に考証するのとは何か一味違うものがあると考えた結果である。その成果の一つが、篠山近辺で踊られていたデコンショ踊り(みつ節踊り)のほぼ完全な発掘複元と、元唄としての(デッコンショ節)の篠山での再現であることを最初に報告しておく。

まず述べておかなければならないことがある。特殊な例を除いて労作唄、祝い唄、盆踊唄、俗謡、三味線唄など民謡というものは、その歌詞や曲調もそれぞれの土地の社会的背景や生活様式など歳月の流れとともに、多少の差はあれ変化していくものであるということである。言いかえれば、それはそこで生活する人たちとともに生きているということである。そしてその土地の郷土色を完全に失えば、それは民謡といえないものになり、民謡という名の「はやり歌」にすぎなくなるということである。しかし、すぐれた「はやり歌」が、何処かの土地に定着しそこに住む人たちに愛され、その人々のものとして唄われつづけられるとき、その土地の立派な民謡になることもある。これは私の持論の一つでもある。
1898(明治31)年旧制一高生の水泳部の生徒たちにはじめてうたわれたデッコンショと篠山のデッコンショの問題を考証していく上で、避けて通れない人は亘理章三郎氏である。明治20年後半、篠山近辺の盆踊歌デコンショ節は、遊芸志向の強かった城下の庶民たちにより、その節回しはかなり技巧的になっていたと思われる。特に歌舞音曲等が盛であったこともあり、当然影響を受けていたことは十分考えられることである。私自身も母方の祖父(文久3年生まれで昭和23年没)が当時の唄を中学生一年のころ唄ってくれたのを覚えている。その唄は今東京で篠山節(デカンショ節)として唄われている歌同様にかなり技巧的なものであったのを記憶している。今にして思えば前川澄夫氏の採譜されたほかの二つのみつ節と比較すれば、随分あかぬけのした歌だったのを記憶している。そして篠山城下近辺のみつ節のはやし言葉は「ヨーオイ ヤレコノ(またはヤレコリャ、ヤレコラ)デッコンショ」だったことは間違いのないことである。

なぜその歌が、千葉県の館山市で、亘理氏たちにより伝えられ旧制一高の生徒たちにより、わずか一日か二日で覚え、後日ストームに唄われるような蛮カラな学生歌風デコンショ節にかわったのかが理解できず行きづまったこともあった。
そしてある日、亘理氏が多紀通信会雑誌九号(明治30年)に「郷歌の解」と題し雲渓野生の名で投稿されている文書をみる機会があり、それが答えを引き出してくれるきっかけとなった。ことわっておくがこの多紀通信会雑誌は非売品であり、会員のみに配布され読まれていた本である。明治30年度の会員は発表されていないので同29年の会員数を参考にするが223名で多紀郡在住の人は153名である。郡外は70名であった。篠山町(現在の小学校区)にかぎれば56名、そのほとんどが氏名は省くが町長助役、教育関係者、旧藩士を含む各町内の有力者で一般庶民は手にすることはできなかったものである。各村も同じような傾向であった。
亘理氏がそれを利用したのは当然のことといえる。特に附言としてその理由を述べている
 

「盆のお月さんまるこてまるいまるてまるこてまだまるい、盆の十六日ゃお寺の施餓鬼蝉がお経読む木の空で等の二三は悪しからずといえども旧来の歌の中には感興の益なきのみならず却って風教に害ある者あり故に昨夏試みに(デッコンショ)の曲に合して二十六字歌十数編を作りて今日はその觧を試みぬ唯非才なる野暮漢の作且郷里に関して歌うへき者の十の一たに盡くさずまた以って我郷特有の歌となすに足らずといえども敢えて之を本誌に投するは請ふ隗より始めよとの微意に外ならず歌も曲も賢材の制作を得て我郷里の歌曲を確定し独盆踊のみならず集会にても宴席にても郷里にても他国にても凡て我郷人の興楽するところには必ずこれをうたい且舞ふに至らむことを切望す」

とある。

この文書を読むと次のような解釈が成り立つのではなかろうか。氏はこの時点で自分が昨夏つくった歌詞のように、教育上よくないものはやめて歌をかえ、より良い識者の手で、篠山のデコンショをそれにあう曲に改作すべきだと故郷のデコンショを改変するよう要望しものとだと言える。そのように考えればその後のことは理解できる。氏の書かれた「隗より始めよとの微意・・・」の通り、賢材の制作を待たず、自分自身が曲調を氏の作詞した歌詞にあうような唄いやすい節回しに変えたのだろうと考えられる。

考えれば、一級の優れた指導者の多くを幕末から明治維新(明治革命とも言える)で失ってしまい、その筋の専門家ではよく話題にのぼるようだが、色々な分野で多くの相応しくない指導者に日本の行く先を任せなければならなかったのが、この国の色々な面での悲劇の発端ともいえる。たとえば文化の範疇でいえば、歌曲にかかわる明治政府の欧米偏重音楽教育のコンセプトを背景にした、氏をとりまく環境、および社会的身分がさせたのだろうが、氏の作詞された歌詞等を、拝見する限りでは、他のことは知らず氏の歌舞音曲等に関する理解度には疑問を感じる。氏のつくられた十七詩のうち唄われているのは、わずか三.四詩程度に過ぎず無い。そして盆踊は舞うものでなく踊るものであるし歌曲(里謡)については、盆踊唄、労作唄、俗謡、騒ぎ唄、三味線唄等々を混同されて居たようだ。

そこに翌1898(明治31)年8月館山市江戸屋での塩谷氏との出会いが重なった。そして改作された亘理風デコンショ節が一高生をはじめ学生、生徒間で、「はやり歌」として唄われだしたのである。しかし素朴な唄になっていたとしても音楽的知識がなければ一日程度で覚えられる歌ではない。いい加減にまねたのだといえる。それは予想されないことではあっただろうが、やがて氏が思いもしなかった、あのバンカラな一過性の「はやり歌」学生歌デカンショ節の誕生になったのである。

しかしその唄は一高の生徒だけで唄い広められたものではない。他多くの学校の生徒、学生たちも含めてである。そして篠山出身者に持ち帰らせた歌は亘理風デコンショ節であり、はやり歌の学生歌デカンショ節ではなかったことである。しかも私の調査した範囲では日本の各地の城下町に残る盆踊唄がこのような形で移入され入れかえられた事例は皆無である。こうして篠山地方の祖先が残してくれた文化遺産としてのデッコンショと、デコンショ踊りは90年以上追い出される結果になったのは事実である。