現存する2つのデカンショ節について 3

更新日:2021年10月12日

篠山市内においてデカンショ節の保存と振興に長く携わってこられた圓増浩之さんが地元には曲調の異なる2つのデカンショ節が存在することに注目し、様々な資料を掘り起こしながら今広くうたわれるデカンショ節が生まれた歴史的経緯などを考察しています。
本サイトでは、重要な地域情報であるデカンショ節のデータベースのひとつとして「デカンショ節に関する一考察」を圓増さんの了承を得て掲載します。デカンショ節を歴史的に考察する上でのひとつの問題提起であり、ひとつの意見と考えられます。
読みやすくするため原文を少し訂正していますがご了承下さい。

みつ節(みつ節踊り)考証への一歩

デカンショ節のルーツについて

今篠山で唄われているデカンショ節については多くのことが解明されてはいる。もう一つの盆踊唄としてのデカンショ節は実在し、しかも全国的に唄いつづけられているのは事実であるが、その波及の経路には諸説があり定かでない。当然のことながら、その元であるみつ節が、何時頃、この土地でうまれたものか、それとも何処かの歌が、その何処かの人達により伝えられ、変化したものか、異論もあるが牛深ハイヤ節が佐渡おけさになったような答えはでない。不明なのである。私はどちらかといえば後者の説をとりたい。
確証はないがこのみつ節が、江戸中期に存在していたことは、まず間違いのないことといえる。みつ節の歌詞のなかに「新庄久左衛門さん箒はいらぬ娘小袖のすそで掃く」というのがあるが(ほかにも三曲ほどある)、これはみつ節踊りが盛んであった城北新庄の庄屋さんの裕福な生活を唄った歌で、この庄屋が栄えたのは元禄年間であると、かって、その新庄在住の日本城郭研究の権威者として知られる朽木史郎氏に聞いたことがある。そして江戸後期に没落したその庄屋を唄った歌も幕末から明治にかけて唄われ残っていることから考えると、元禄年間にすでに唄われていた盆踊唄と考えて間違いはないであろう。その当時の節回しは、幕末から明治にかけてのものとは似ていただろうがもっと、本来の日本の旋律による素朴ながらもすぐれたよい盆踊唄であったと想像できる。でなければ明治30年代までのながい年月を、当地方で唄い継がれ、今もなお日本各地で唄われ、民謡集などのしかも最近のものにいたるまで、そのほとんどに篠山節(デカンショ節)が記載されることはないのではなかろうか。

実在する二つのデカンショ節

前述のとおり曲調の異なる、二つのデカンショ節が全国に広く伝えられ、流行しているのを、篠山の若い世代では知らない人が多い。一つは今篠山で唄われているデカンショ節、もう一つはデコンショ節として篠山から東京へ、東京から全国へ一般の民謡愛好者、民謡界を通じて流行している盆踊唄デカンショ節(篠山節)、この二つのデカンショ節が現実に存在する。後者はすでに、前述のとおりすでに、他の篠山の唄とともに、認知されテープが販売されている。この実在する二つのデカンショ節は、当然のことながら二つ以上の経路を辿ってきたことをまず知っておかなければならない。そしてこの問題についてなぜか今まで、論議もされずにきたのか不思議なことではある。前者は知名人による、デカンショ節にかかわる文書の類もあり、よく宣伝されているが、後者はどうして広まったかは口伝えのみでそのたぐいは皆無に等しいし、ために論議を控えた人もあったかもしれない。だが何時の世にもそれに疑問を抱き考証を試みるものはいる。
幸いなことに、1960(昭和35)年9月5日、町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」が岩波書店から発売されている。篠山で唄われていたデコンショが採譜されている。町田氏は「本に掲載した曲譜は昭和十二年頃から編者町田が日本全国を遍歴して採取した録音盤(町田式写音機で録音したもの)を基礎として楽譜化したもので、更にこれを単純化したものである。楽譜は一般に広く知られている通俗的な唄を主に選んで載せたが、中略 歌詞、囃子詞等の表記法が本文と若干相違する場合のあることを諒とされたいと」、書かれている。それも本物の民謡の採集で知られた氏の採譜である。
1939(昭和14)年5月町田佳聲(嘉章改め)52歳丹波、丹後の両丹地方に採集旅行と、氏の略年譜に記されている。これは、もう一つのデカンショ節存在の証明でもある。その説明は、浅野氏の担当であり多分一般デカンショ節の解説を転載されたものと考えられ間違いが所々にみられる。また、昭和53年7月秋田県の藤尾隆造氏著の民謡おさらい教本にデコンショ節のうたいかたの譜面(五線譜ではない)、また1998(平成10)年発行の長田暁二・千藤幸蔵両氏の編著に、前述の町田氏の採譜とほぼ同じ曲調の篠山節(デカンショ節)の譜面が記載されており、明治中期より現在まで同じ節回しで唄われている証明の一つでもある。
デコンショ踊りとともにデコンショ節の復元それは篠山地方の民俗文化にとって特筆すべき出来事なのではないだろうか。それは偶然のかさなりのなかでの奇跡的な復元であるが、祖先の残した伝統文化の魂が呼び起こしてくれたものと信じたい。
みつ節に関しては、最近版として前川澄夫氏の著書デカンショ節考がある。色々と参考にさせていただいている。本当によく調査、研究されている。とかく私見が多く入りやすいため、反論のでやすい類の著書ではあるが、私の所見として述べたいところも多々あるが後日に譲る。しかしこれにも、前述のように後者のデカンショ節についての記述はなぜかまったくない。他のどの書物、文献にもその件に関するものはなにもない。当然のことながら南氏のそれにもまったくない。唯一昭和56年6月発刊の日本民謡全集の近畿・中国・四国編に、後者は(みつ節)東京中心に一般の人々に、民謡界に、また花柳界によってうたい拡げられていっており、この唄が篠山の歌であるところから篠山節と呼ばれたが、こちらはみつ節の曲調を保っている、と記載されている。そしてこの唄は、東京でうたわれようと、秋田でうたわれようと、九州地方でうたわれようと幾分の節回しの違いはあっても、それぞれの地方特有の味付けはなく関西のしかも篠山の歌らしい形で唄い保たれているのが嬉しいことである。篠山でほとんど無視されつづけ100年あまり、頬かぶりで100年あまり、どうもすっきりしない不思議な事象ではある。

もう一つのデカンショ節(篠山節)の波及経路

東京で篠山出身者の唄う歌が、唄上手な人達により、一般人、民謡愛好家、民謡界に広く唄われたもう一つのデカンショ節。篠山人は硬ぐるしく、やぼな人ばかりではなかった、篠山出身の人々や私学の学生たちが唄っていたという故郷のデコンショ節が多少の節回しの変化はあったと考えられるが、歌詞は殆どが篠山のものである民謡が、同じ東京ではやり、明治後期にはよく唄われていたのは事実である。このことを証明した人達がいる。
その一人は篠山町長をつとめた経歴のある斎藤幸之助氏である。氏が在京中の1898(明治31)年偶然篠山のデコンショを聞き驚きと懐かしさとで、なにもいえなかったと帰郷後家族や友人に話しをしている。そして唄の名前は篠山節であった。
篠山の歌だから、または学生歌デカンショ節と区別するために、篠山節と呼んだという。デカンショ節の別名である。東京から全国に、二つのデコンショ節の流行が同時進行したという日本で珍しい民謡の一つである。そしてはやし言葉は紛れもなく当初はデッコンショであったが大正の始めには、現在と同様デカンショとはやすようになったが、今でもこの歌は唄う人により、幾分の節回しの違いはみられるが、全国の民謡界、その愛好者に唄われている。現在現地録音以外の正調デカンショ節または篠山節というタイトルのCD、ミュージックテープの歌の殆どがこの歌である。伝え聞く二.三.の説を紹介する。東京の下町の料理店で篠山の人が唄っていたのを聞き、仲居さん達が唄いだしたのが元という説、篠山の私学の学生が下宿の近くの酒場で唄うのを聞いた歌好きの女将が唄い、それが流行するきっかけをつくったという説、三味線、尺八等にたんのうな歌の好きな人が大阪の飲み屋で、デコンショを聞き東京に持ち帰り、唄の上手な弟子に唄わしたのが元になり、はやりだし色々な民謡歌手によって唄われるようになったという説。なぜか酒がどの説にも関係しているのも不思議ではある、飲み屋、風呂屋、髪結床は色々な話題の発信所でもあった、その伝達の速さはかなりなものといわれ、如何にも庶民的な感じである。そして一般庶民による、それらの説のどれもがデコンショの波及のもとだったのかもしれない。
しかしそれを立証する文書もなにもない。だれが、何時、何処で、何故は解明されないと思う。そもそも民謡とはそういうものなのである。逆にいえば、だから民謡なのである。新しい作詞、作曲者がはっきりしている民謡は別にして、古来からある民謡にそれらの全てが正確に解明されたものは皆無で、ほとんどの書籍にはそうである可能性は高いが、今後のより詳細な調査が必要であるなどと記されている。そして後者のデコンショのほうが日本民謡界では知られよく唄われているのも事実である。当然篠山でも、近辺でも唄う人が急増している。

付け加えるがデコンショ時代には唄の後半を音頭取と踊子がくり返し唄っていたところも篠山には北村、新庄、奥畑地区、後川地区等にあった。音頭取と踊子が繰り返しを唄うのは、七七七五調の盆踊唄ではごく当たり前のことであるし、他所では繰り返しのないものは長囃を入れて唄ったものもある。丹波与作で有名な後藤節を当地で篠山節と呼ぶようになったのは昭和二十三年以後前川悦太郎氏の提言によるものであることを附記しておく。これが民謠界でいう篠山節(デカンショ節)と地元でいう篠山節(後藤節)を混同させる原因であった。後藤節に戻すべきである。

学生歌デカンショ節(はやりうた流行歌としての)

1956(昭和31)年から全国民謡踊り大会、国体のマスゲーム等により一躍脚光を受けたこともあり、1958(昭和33)年3月突然千葉の館山市が、デカンショ節の本家はこちらであると抗議し、週間サンケイにその理由を載せた。当方もそれを否定し抗議した。それは数回に及んだが解決せず、館山市は証拠を得るため同年8月11日問題の塩谷氏を招き産経新聞等の記者も呼び色々と当時のことを話されたのが、テープにとられていて、内容はその年の九月の週刊サンケイに詳しく記載されていた。それらの週刊誌は当時の篠山町産業課の担当者を通じ保管を依頼しておいたが、その他の書類、参考品等見当たらないものが多い現在、現存するかどうかは不明である。
1898(明治31)年は館山ではデコンショであったことも明白になり、一応本家争いから身を引かれたのである。デカンショとコとカがいれ替わったのは学生間で唄われているうちにただデカンショのほうが語呂がよいために訛ったもので、三哲人、デカルト、カント、ショペンハウエルの頭文字ととって付けたと言うのは、後のこじつけである。館山でも明治30何年からデカンショに変化したという記録はない。
たしかに百余年前千葉の館山でうたわれたデッコンショ節を旧制一高生が借用し唄ったのがきっかけとなり、全国の学生たちに広がつたものである。丹波が頭についた篠山、田舎の代名詞としての篠山であったが知名度の高いものにしたことも事実である。
その碑が建っているのだから学生歌デカンショ節発詳の地館山でよいといえる。その唄は篠山で唄われたことのない学生歌だからである。それに亘理氏が直接かかわっていられたかどうかは不明である。前川氏のデカンショ節考に採譜されている明治末期から大正初期のデコンショ節にさえその何処に、バンカラな、豪快な節回しがあるというのか、この一例をみても明らかである。
明治30年代の押し付けに近い亘理風デカンショの里帰りを(当時の状況から考えると可能性は無かったと思われるが)拒否し、その元唄が篠山で、伝承されていたら、篠山の人達により、この篠山に今とは比較にもならない素晴らしい唄と踊りが、育っていたかもしれない。そして近い将来篠山のひとたちにより、祖先が残してくれた元歌としてのデカンショ節を表舞台に載せることができると信じたい。すでに篠山町でも推薦、認知されているのだから。篠山の伝統文化は自分たちで守り育てるべきである。

昨今の民謡ついて思うこと

民謡について記述し始めると、膨大な紙面が必要になる。したがって今回は主にデカンショ節についての問題の考証であるため、民謡に関してはその専門書を参考にしていただきたい。
しかし、まずこれだけは知っておかなければならないことがある。日本の民謡は今、大きく分けて二つの流れにのって動いている。一つはその歌がながい歳月をかけはぐくまれその土地の人たちや関係者により育って生きつづけている本物の民謡、それはその曲調に日本古来の旋律(素晴らしいことに日本には66音階あるといわれる)をもつものが多いのは当然のことである。近年できた民謡は別としてもう一つの流れは、民謡歌手と呼ばれるなかの一部の人たちにより、そのうまれ、あるいは育った歌の土地の香りなど考えず、しかも自分勝手に手を加え唄われている本物でない民謡、そしてそれは西洋のドレミの十二音階を基調にしたもの。これは民謡ブームが始まった昭和30年前後より、NHKを始めとする、マスメディアによる影響が大きい。いやそれによってつくられたといっても過言でない。日本の各地の歌を全国の人達が知る機会を提供した功績は認めるとして、一方では本物の歌の陰を薄くし本物でないものが本物のように振舞うようにしてしまった罪もある。この根源に明治政府の音楽教育に関する西洋崇拝の概念がある。日本古来の旋律の蔑視と軽視の性急な西洋のドレミ十二音階導入と指導教育がある。ドレミで楽しんでいるのは地球上で三分の一しかない、あとはそれぞれ自国の旋律を大切に残している。日本にもあまり手をつけられていない労作唄、祝い唄、盆踊唄等の民謡に日本の旋律が残っている。篠山節というデカンショにはまだそれが少しだが残っているのは、盆踊唄として大きい意味をもつ。郡上踊りのかわさきにはないが,古調かわさきには残っている。前述の亘理氏の改作したデコンショは学生歌デカンショ節との関連からみて、ドレミ音階であったことに間違いはないといえる。
60年ほど前には、デカンショ節は日本民謡界では、民謡としてではなく学生のはやり歌、運動会の応援歌程度の認識しかもたれなかったものである。これは事実である。民謡として認められていたのは篠山節という名のデカンショ節であった。わたしたちがお世話になった民謡界では知られた初代谷井法童師もそういわれていた。
沖縄を除くと意外なところに、デカンショにかぎらず古くから伝わる盆踊唄、作業唄、お座敷唄などにも、よく似た節回しの唄および踊りがあることに気付く、当然歌詞もそうである。とにかく狭いこの国、船、車馬、駕篭(かご)、徒歩その移動の手段を問わず仕事なり、遊山、社寺参り等の人々により持ち込まれ、またはもち帰られその風土にあったものは土地の歌や踊りにとり入れられたものと考えるのが自然だろう。一例だが伊勢音頭の節回し、同じ歌詞が兵庫県、大阪府、京都府、岡山県、山口県、静岡県、岐阜県、神奈川県等々多くの府県に存在する事実をみても、デカンショ節に類似した歌詞が数多くあるのは不思議なことではない。

デカンショ節について思うこと

デカンショ節と踊りが、デカンショ祭として復興する前から、崎山風デカンショ節に背を向けていた一人の歌い手があった。前述の前川悦太郎氏である。その曲調は、いまのデカンショ節とは一味違う唄であった。悦太郎氏が1947(昭和22)年、自分の唄が明治末期唄われていたデカンショ節だと私に話されたことがあった。そして崎山氏とのデカンショ節にかかわる確執が、10年以上つづいたわけである。私見だが悦太郎氏の唄が亘理改作デコンショに近い唄であったと思う。大正末期から戦後までいちずに研究を続けてきた専門の崎山氏に対し、前川氏が勤めをもつ人で、第一線での活躍が常時できなかった等の事情もあり、崎山氏が音頭とりの第一人者として、多数の支持を得ていたこともあって、今の曲調になってしまったわけである。もしも、当時その二人の立場が逆で、前川氏に音頭取としての実力がよりすぐれ、デカンショ祭りや盆踊りの音頭をとっていたとすれば、今とは一味違ったデカンショ節が唄われていただろう。時として土地の民謡は、その時期それを唄う人たちの立場や、それぞれ歌い手として、芸人としての実力の差が、その歌の運命を左右することがあるのは仕方のないことである。
しかし崎山氏にもその20数年の研究のなかで大きなミスがあった。それは盆踊唄として当然踊りがつくことをあまり考えない曲調の手直しであった。それが踊りの振り付けに多くの支障をもたらした原因の一つでもあった。盆踊唄は踊りと一体のもの、それを忘れ改作した盆踊唄は、越中おわら、郡上踊り、等々に見られるように、当地の人にも、各地から踊りに来られる人達にも、盆踊りだけで一人歩き出来ない宿命を当初からもっていたともいえる。
故人になられたが、たんば田園交響ホールに関係されていたある人物(篠山町民ではない)が篠山のデカンショ節をもっと蛮カラ、豪放にすればよいと篠山の関係者に進言され、かって西宮市民祭りで、出演した中の、心ない一部の会員グループに飛び上がる踊りを踊らせ観衆の嘲笑を受けた記憶はまだ新しく心に残る。篠山だけではなく県内外の各地で、同じ言動をされている。まさに各地の伝統芸能を汚しまわった人の代表者だと言って過言ではないと言える。デカンショ節はもともとバンカラ、豪放な歌でないといっておきたい。
盆踊唄、作業唄等は働く庶民の唄、何の娯楽もなかった人達が、生活環境と感情をそれらの唄に読み込み鬱憤を晴らしたり、楽しんだり、今でいう情報を伝え合ったり語り掛けていたのである。たしかに卑猥(ひわい)な唄が数多かった。それは日本の盆踊唄、作業唄に共通する。例え下品な歌といわれる歌詞でも、さらっと唄われると、嫌らしさもないしユーモアさえ感じ微笑ましい。それに生活の知恵さえ唄いこんでいる。後藤節にも唄われている「白いところにしょんぼり黒い雪に茶かすを捨てたよな」 卑猥で嫌らしく思われますか?…「盆のぼたもちゃ三日おきゃすえるおばん此れみよ毛が生えた」おいしいものはケチらず早く食べよという意味とおばん(おばばー姑、当地方ではおばばとはいわない)嫁にもおいしいうちに食べさせなさいという意味を掛け合わせた生活の知恵ともいう唄なのである。塩谷氏や亘理氏がこれはいけません、というような唄と思われるだろうか。
しかし亘理氏の作詞した二.三の歌詞は残って今でもうたわれている。これは氏の歌の里帰りがあった証でもある。旧幕時代のある西国の外様大名の士族の子孫である一人の旧制一高生がつくったという(亘理氏作というのは間違いである)「丹波篠山山家の猿が花のお江戸で芝居する」という歌詞は幕末から明治維新、そして明治末期頃までの、篠山自体と、その出身者の一部の人々を、現在篠山の人達が理解している意味とは全く違った意味の歌詞なのである。篠山でよく唄われているこの歌詞がデカンショ節の代表歌詞(パロディ?)とは、また皮肉な話ではある。90年余り唄われてきた歌詞だから、とやかくはいえないだろうが、真実は真実として認めておくべきである。考えようでは篠山人はおおらかなのかもしれない。この話は確かなことである。昭和43年春、滋賀県八幡の国民休暇村の宿でそれを語った方の氏名は事情があり、故人ではあるが今は残念ながら記載することが出来ないのを諒とされたい(その方はかっての篠山藩重職の子孫である)。いまさら死んだ子の年を数える愚はしたくないが、一高の水泳部の委員だった塩谷、篠山出身の亘理両氏の出会いが、文化遺産としての篠山本来のデコンショ節を篠山の里から追い出した大きな要因の一つであることに間違いはない。逆にいえば出会いがなかったら、もっとよい唄や踊りに育っていただろう。