八上城跡(高城山)

更新日:2020年07月06日

八上城跡(高城山)の写真

 

八上城の城主であった波多野氏はもと岩見国の武士で、応仁の乱後室町幕府の実権を掌握した細川政元から多紀郡を与えられこの地に定着したとされる。その後、波多野氏は八上を本拠として、室町時代末期にかけて戦国大名に匹敵するほどの実力を畜えることになる。
波多野氏に関して著名な事歴は、天正3年(1575年)から開始される織田信長の丹波掃討戦、いわゆる「丹波攻め」における八上城の戦いである。天正6年(1578年)2月、三木城主別所長治が毛利氏と結んで信長に背くが、秀治は長治と姻戚関係にあったことからこの謀反を支援してほかの丹波国人衆とともに蜂起したとされる。
信長は明智光秀に征討を命じ、3月にその軍勢が丹波へ侵攻する。そして、八上城は光秀の軍勢に包囲され、その後1年余りにわたる籠城で波多野方は徹底的に食糧を消耗させられることになる。この戦いは最終的に城兵500人ばかりが餓死し、また城内に明智方へ内通する者があって落城の憂き目を見ることになる。
秀治はその兄弟とともに生け捕られ、安土へ曳かれ磔刑となり、戦国時代に名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになる。
この物語性に富みかつ劇的な攻防戦の主要な場所が八上城である。八上城は標高459mの高城山に築かれており、東西800m、南北400mほどの丘陵内各所に曲輪を配置した大規模な山城となっている。特に山頂部の主郭には大規模な連郭式の曲輪群と一部石垣が見られ、堅固な城構えを呈している。
さらに、八上城の西側には奥谷と呼ばれる谷が南北に延びており、八上城主郭から谷に向かって張り出す尾根の先端に蕪丸城跡(奥谷城)がある。この奥谷城は波多野氏の八上城以前の城とされ、まず奥谷城を築き、その後戦国大名化の過程で八上城を城塞化したと見られる。さらに、奥谷の城下町を守るため、その西側に位置する法光寺山をも城塞化(法光寺城)している。