篠山の由来 「笹の山」か、「神聖な場」か

更新日:2020年06月24日

木が映った写真

 


「笹の山」か、「神聖な場」か
丹波篠山のシンボル、篠山城。築城をきっかけに「篠山」と呼ばれるようになった。

ボランティアガイドをしている私たちが第一番に観光客に案内するのが、丹波篠山の金看板「篠山城」。この散歩道も篠山城からスタートさせ「篠山」の地名の由来にこだわってみよう。
2年ほど前、福岡県久留米市からの20人ほどの観光客を案内したときのこと。その中の一人から「うちの城とここの城は形が似ていますね。ここはうちの殿様が造った城ですか」と訪ねられた。一瞬、何のことか理解できなかったが、久留米にも篠山城があることに思いが至った。
丹波・篠山城は慶長14(1609)年、徳川家康が西国大名監視のため、津城主の藤堂高虎を縄張奉行(設計)、姫路城主の池田輝政を普請奉行(総監督)にして、有力な外様大名20家を集め築城させた平山城。
この中の一人が久留米・篠山城を築いた「うちの殿様」有馬豊氏だった。豊氏は、江戸幕府が開かれた頃は福知山8万石の小大名にすぎなかったが、丹波篠山城築城後の大坂夏の陣(1615年)で功を挙げ、元和6(1620)年、21万石に加増され久留米に転封。丹波篠山城を懐かしんで久留米の砦を壊し、新たに「篠山城」を築いたと伝えられている。
このように、久留米・篠山のルーツとなった丹波篠山だが、昔からある地名ではなかったらしい。築城以前は日置荘黒岡村といい、築城をきっかけにこの地方を篠山と呼ぶようになったのである。
「篠山」の起源については、「小笹が生い茂っていたといわれる『笹山』という小山を利用して城が築かれたから」という説と、「『さおとめ』『さゆり』など『清く神聖な』という意味の『さ』を重ねて名付けられた」という説がある。畑宮には「佐佐婆神社」という神社(佐佐婆とは清く神聖な場、という意味であろう)もある。
今でも時代劇のロケーションによく使われるなど、篠山城下は町並みが比較的古いまま残っているが、これはかつて阪鶴鉄道(今のJR福知山線)を篠山に通す計画が地元に説明されたとき、「火事が起こる」などと反対したからであろう。子供の頃は国鉄が通らなくて残念、と思ったこともあったが、今考えると、鉄道が通らなかったからこそ、という思いが強い。