丹波とは 名の由来は「田庭」など諸説

更新日:2020年06月24日

航空写真。田んぼと野山が映っている。


名の由来は「田庭」など諸説
兵庫丹波の東の入り口、福住。京都に近いこのあたりは何度も戦火に見舞われた。

「丹波」とは、兵庫県の篠山市(多紀郡)、氷上郡と京都府の3市3郡の総称で、一般的には兵庫丹波、京都丹波と呼ばれている。国名の由来については諸説紛々。記紀その他の古書には丹波・旦波・但波・丹婆・谿羽などの文字が当てられているが、「諸国名義考」には「田庭なるべし」とある。これは、かつて豊受大神宮(外宮)が丹波国真奈井にあり、皇大神宮(内宮)の御食事の稲を作っていた広く平らな場所の意味だという。昔は赤米が主流だったので、 「赤い米がたわわに実って風にそよぐさまが赤い(丹)波のようみ見える」というロマンチックな解釈もできる。

他にも、「かつて湖があったところ、紅葉した周囲の山々が夕日に映えて波間にきらきら輝いている国」という説など、ざっと数えるだけで7,8種類あり、いずれが史実かは見極められない。

そもそも大昔の丹波は日本海岸にも及ぶ広大な地域で、大陸との交通も行われていた。縄文、弥生の時代から強大な勢力を持つ首長が居たことは、遺跡や古墳などから確か。大和朝廷への服属もかなり早い時期だったと考えられる。

大化改新の詔(646年)で国郡制が定められて丹波国が誕生し、638年には但馬が、713年には丹後が独立。篠山街道が「京街道」と呼ばれるように、京都に都が置かれてからの丹波は、かつての山陰道の要衝となった。京都に隣接しているため、源平の戦い、足利尊氏の挙兵、応仁の乱、明智光秀の丹波攻めなど、歴史の節目節目で大きな被害を受けた。しかし、貴重な古文化財の数々は守り継がれ、丹波の文化は地域に根ざして芽を吹き、豊かな個性を実らせている。