大山荘 日本最古の私学「綜芸種智院」の売却代で成立

更新日:2020年06月24日


日本最古の私学「綜芸種智院」の売却代で成立

 

丹波の山々の画像

有名な丹波国大山荘は空海が創立した日本最古の私学である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を、その死後、売却した代金で、承和12(845)年、河内郷(大山村)の大山谷付近の44町140歩を藤原良房から買い、東寺別当長者実恵の奏請により成立した。
東寺は、荘官を置き経営に努めたが、良田化は進まず。彼らは土着して一般農民と同様に国衙の支配下となり、荒廃田を収公する方針に対する国司との抗争も続いた。長保2(1000)年、東寺の宝蔵が焼け、当荘の原本も焼失。天喜年間(1053-58)には国衙が被災し、東寺関係の文書がすっかり無くなった。それらによって延久元(1069)年の荘園整理令以降はほとんど消滅状態になった。
広徳3(1086)年、源顕房と二男の丹波守顕仲が東寺五重塔を寄進し、大山荘を復活した。のち、国司高階為章はいったん収公したが、康和4(1102)年、田畑432町を東寺領と認め、就任後も預所となった。その後、鎌倉初期の荘田は60町となり安定する。
承久の乱(1221年)の戦功により、武蔵国(埼玉県)中沢郷の御家人中沢左衛門尉基政が新補地頭として着任し、封建支配の確立を図った。農民たちは東寺を支援したが、仁治2(1241)年に地頭請が成立。米142石ほかを納める約束となる。
だが、2代あとの基員のころには160石も滞納している。幕府に訴えたが、永仁3(1295)年、池尻村内一井(印)谷、加茂茎谷(旧丹南町長安寺の東方)と西田井村(大山下、東河地、明野周辺)の田畑30町と若干の山林は東寺領に。残りの3分の2は中沢氏のものとなった。さらに東寺は一井谷の農民に文保2(1318)年、百姓請と年貢の40%引きを許し、西田井村の銭納を認めた。
このころから村落自治が活発化し、現在の大山下から北野へ抜ける旧道の市場橋付近には常設市場があり、市庭(場)人と呼ばれる専業の商人がいた。大山の谷筋でのドラマの主役は明らかに変わりつつあった。

南北朝時代の地頭譲渡し状

南北朝時代の1390年(明徳元年)の地頭譲渡し状
出身の大山のことを研究されている中沢勝さん(滋賀県)の貴重な史料

譲渡 所領事

一、上野国多胡庄内今泉田在家事 御判安堵書副也
一、丹波国遊楽庄西村地頭職并安延名事
一、同国大山庄内清徳名等事 大御所相副安堵御判也
一、同国大山庄内一分地頭石積并重久名包光半名等 中澤七郎左衛門入道跡買徳相伝田畠等事
一、武蔵国中澤郷内和田村彦三郎入道在家同田壱町同名等事
一、讃岐国多配郷内うなさかのやしろの事

右、所領者、信明相伝当知行無子細地也。而今泉村遊楽庄西村安延者、当御代相副安堵状御下文、任故入道言信祖高、次大山庄之内清徳名、重久名、包光半名、石積者、武蔵国中澤郷内和田村、讃岐国多配郷内者、中澤七郎左衛門入道同源内さ衛門入道寿正相副状譲状譲渡弾正信実之処也。永代子々孫々可知行者也。
仍、譲渡如件。

明徳元年 庚午歳八月三日 壱岐守信明(花押)