金山城跡 明智光秀による奥丹波攻めの拠点

更新日:2020年06月24日

明智光秀による奥丹波攻めの拠点

丹波の山々の画像

国道176号の鐘ケ坂トンネルの手前、左側に迫るのが金山(540m)だ。伝承はともかくこの山が金や鉄など金属と関係があったものと思う。郡(市)境で篠山市追入と氷上郡柏原町上小倉にまたがり、山上に金山城跡(市史跡)がある。
天正3(1575)年10月、織田信長は、但馬の山名一族が黒井城(氷上郡春日町、市島町)の城主荻野直正に攻められ、援軍を求めてきたのを契機に、天下平定の矛先を奥丹波に向けた。
信長の命を受けた明智光秀は、八上城(篠山市)ほかの波多野勢も味方に付け、2ヶ月にわたって黒井城を攻囲した。翌4年1月15日、総攻撃の最中、波多野秀治らが突然寝返ったため、光秀は大敗し、栗柄峠、鼓峠(西紀地区)を経て坂本に逃れた。
同5年10月、光秀は細川藤孝らとともに篠山市(多紀郡)に入り、安口城(安口)、籾井城(福住)その他の諸城を攻略。同6年3月からは八上城を攻めたが、堅城のため一気に攻撃できず。般若寺城(般若寺)、勝山堡(和田)の付城を築いて食料を断つ包囲作戦をとった。その後、播州に転戦したが、8月には引き返して大山城(北野)など郡西部の諸城を落とした。9月上旬から先年の失敗をもとに、氷上郡と多紀郡を分断する拠点に城を築いたのが金山城である。
築城の城番には矢嶋刑部、加上弥右衛門、朽木久兵衛を置いた。同7年6月初めに八上城が、8月9日に黒井城が落城したが、「兼見卿記」によると、10月12日には普請が行われていると書かれている。本能寺の変(同10年6月2日)の後、廃城になったと考えられる。
追入からの登山口が大手で、赤坂山観音堂がある。もと鋸丸の大乗寺跡、、園林寺跡を経て小切丸、馬場、二の丸、本丸、西側に朽木丸、矢嶋丸などがあった。本丸の西下に安藤広重の「六十余州名所図絵」の「鬼の架橋」や「天狗岩」などがあり、訪れるハイカーも多い。