丹波茶 技術改良で声価飛躍

更新日:2020年06月24日

技術改良で声価飛躍

茶葉を積む人たちが映った写真

JR篠山口の西北方、味間谷の段丘、扇状地には、濃い緑の茶畑が里人たちの慈しみを受けて青い波のように続いている。
茶は「南方の嘉木」と言われ、中国では古くから薬用として愛用され、唐の玄宗の開元年間(713-41)以降、嗜好用として普及した。
日本へは、延暦24(805)年、僧最澄が唐から茶の実を持ち帰り、比叡山山麓に植えたのが始まりとされる。弘仁6(815)年6月に朝廷の命により、畿内並びに近江、丹波、播磨などに茶樹を植え、京中にも官営の茶園を造っている(「日本史略記」)。
仁安3(1168)年、僧栄西が宋より帰国し、茶種を山城国栂尾の高山寺明恵上人に送った。それが、抹茶法とともに宇治、醍醐、奈良などに広がり、再び丹波にも亀山(現・亀岡)を経て多紀・氷上両郡に入り、寺社や上層農民が茶畑を持ったと考えられる。永正年間(1504-21)に和田寺(今田町)は、波多野孫四郎元清を介して、守護細川高国に茶三袋を贈り、正月18日付けの礼状が残る。天正17(1589)年秀吉は高仙寺(丹南地区)に聚楽第の用材の礼として、茶役を免じている。
慶長19(1614)年の篠山藩主の茶園は、41町5反余り、茶役米は約13石であったが文政8(1825)年には約350町にも達し、主産地は味間、大山上、住山、当野、真南条、草山、後川などであった。茶商人も藩内に91人いて大阪の市場価格を決める勢いを持ち、消費量の半分の10万貫を占めていた。
明治以降、やや衰退していたが、近年、栽培と製茶技術の改良に努め、飛躍的にイメージを高めつつある。現在、丹波での製茶量は164トン(県産の59.4%)、うち丹南地区だけで98トン(同36%)にも達し、県下最大の産地である。
毎年6月の第1土、日曜日に味間地域では「大国寺と丹波茶まつり」が催され、多くの人出で賑わう。