軽便鉄道 面影をとどめる軌道敷跡

更新日:2020年06月24日


面影をとどめる軌道敷跡

私たちのまち、篠山が旧城下町らしい静かなたたずまいを今に伝えているのは、鉄道と縁が薄かったのが一因、といわれている。しかし、この篠山盆地はかつて、国鉄篠山線、篠山軽便鉄道という2本の鉄道があった。
今、複線化が現実のものとなりつつあるJR福知山線の支線として、日の当たる場所にあった国鉄篠山線。その陰に隠れていた篠山軽便鉄道。どちらも世代的に関わっており感慨深いが、人々から忘れられようとしている小さな鉄道・軽便にむしろ思い出のスポットを当ててやりたい。
「軽便」。大人も子どもも「篠山軽便鉄道」などというフルネームで呼ぶことはなかった。家の近くの土手の上を、草相撲の力士のような朴訥な感じの機関車がマッチ箱のように愛らしい貨客車をひいて往復する姿は、まさに「うちとこの軽便」だった。
しかし、現実の「篠山軽便鉄道」は、大正4(1915)年の開業から昭和19(1944)年の廃止まで29年間、社名は篠山鉄道と改称されたものの、弁天駅(現在のJR篠山口駅)の簡素なホームから、歩兵第70連隊のある町として聞こえが高かった篠山町駅までの約4キロを、万年赤字という重荷を背負ってあえぎあえぎ走っていた。
日ごと車窓に見ることの多くなった出征兵士や見送りの人たちに、無邪気に手を振り歓呼の声を上げていた幼友達。家業を継ぐべきはずの身を海軍に召集され、軽便に乗って出征した従弟。そして、その従弟が再び見ることはなかった渡瀬の鉄橋の下を白く泡立って流れていた篠山川の水の色・・・。幼い頃の軽便の思い出は、戦雲低くたれ込めていたあの時代に自ずと重なってくる。
時は流れてレトロ嗜好、SLブームの今。今はご縁があって観光ガイドの手伝いをさせていただいているが、わずかに面影を留める軽便の軌道敷跡の傍らを通るとき、ふと思うのだ。「軽便よ、今こそおまえの出番ではないのか」と。