歩兵第70連隊 “丹波の鬼”の夢の跡

更新日:2020年06月24日

“丹波の鬼”の夢の跡

緑豊かな自然に囲まれた田園のまち、伝統が生きるデカンショのまち、丹波篠山も軍都として栄えた敷きがあった。
日露戦争後の軍備拡張計画で、明治40(1907)年、歩兵第70連隊が大阪歩兵第8連隊内に編成され、翌年、篠山に新設された兵舎に将兵約1000人が移駐完了した。
当時の代議士、森本荘三郎が中心となり、郡内の各町村長、郡会議員らの協力のもと、後の陸軍大将、本郷房太郎(当時陸軍少将)、同じく本庄繁(当時陸軍大尉)らと密接な連絡をとり実現したのであった。
以来、終戦までの約40年間、兵舎の背後にそびえる盃ケ岳の早駆けや、多紀連山を舞台とした山岳訓練により「丹波の鬼」として全国にその名をとどろかせた。
しかし、終戦とともに、その栄光はすっかり消え失せ、兵舎は県立篠山産業高校、柏原職安篠山出張所、三井ミーハナイトメタル篠山工場に。練兵場は篠山産高の農場、県総合庁舎、県立スポーツセンター、新たんば荘などに変わっている。
兵営は、正門の門柱だけが残っており、内側には「歩兵第70連隊跡」「歩兵第168連隊発祥の地」の二つの記念碑が建っている。
現在の三井ミーハナイトメタル敷地内には、49年に兵庫農科大学が設置されて、軍都から学都への転換と発展が嘱望されていたが、67年、神戸大学農学部に移管されて移転した。
「我等が青春 こゝにあり 兵庫農科大学発祥之地」という記念碑が総合庁舎そばの道路脇に建ち、わずかに面影を残すのみである。
実弾射撃場の跡地は松下電器産業労働組合の経営する「ユニトピアささやま」となり、一般の人にも開放されている。
盃ケ岳はこのめまぐるしい変化をじっと静かに見守っている。「国破れて文化興る」と、文化の発展基地に新しく生まれ変わることを祈りつつ。