デカンショ節 書生節で全国に広く

更新日:2020年06月24日

書生節で全国に広く

デカンショ祭りの写真

丹波篠山は、伝統が生きるデカンショのまちである。デカンショ節の元唄は、この地方の古い盆踊り唄「みつ節」である。これが明治の中頃、旧篠山藩主、青山忠允の教育係をしていた亘理章三郎が作った「デッコンショ」が明治31(1898)年夏、房州館山の江戸屋旅館で旧制第一高等学校の生徒らに伝えられ、「デカンショ」と変じた。最初は学生歌、バンカラな書生節で、明治、大正にかけて日本全国に広がっていった。
デカンショ節は今では歌詞も情緒纏綿としたものも増え、幅広く日本の代表的な民謡となり、丹波篠山に住む人たちの連綿として流れる生活の営み、文化そのものを表現している。
戦後、それまで各地区別に行われていた盆踊りを統一し、昭和28(1953)年8月に第1回デカンショ祭が開催され、幾多の変遷を経て、現在のように篠山城三の丸広場での盛大な祭りに発展している。
丹波篠山の人たちの尽きることのない、あふれるばかりのエネルギーがデカンショ節を歌い、デカンショ節を踊って熱狂する。感動のるつぼと化して完全に燃え尽くしてしまい、また新しいエネルギーを生み出していく。デカンショは丹波篠山の人たちの生き甲斐である。
人影無き市民グランドの中央の、デカンショ祭の囃櫓の跡に一人静かにたたずめば、地の底からデカンショ、デカンショと響いてくる。天守台の石垣からデカンショ、デカンショとこだましてくる。