十一、昭和の先賢

更新日:2021年10月13日

◆下中弥三郎(しもなかやさぶろう)
36才の時に「平凡社」を設立し、出版界で活躍した。郷土今田町で電灯の普及に力をつくした。
世界平和7人委員会を作り、湯川秀樹らと共に、世界平和運動を進めた。

西垣喜代次の写真

◆西垣喜代次(にしがききよじ)
大山に生まれた西垣氏は、東京帝国大学を卒業、農村や農民のことについて深い関心をもち、県立篠山農業高等学校に就任、農村子弟の教育にとりくみ、退職後も大山振興会の理事長に就任、森林の振興に力をつくした。

和田義一の写真

◆和田義一(わだぎいち)
旧西紀町農家の二男として生まれ、京都で繊維の会社を起こし、終戦後農家の人たちの働く場所を作り、農村の繁栄をはかった。
将来日本は高齢化社会になることに早く思いをいたし、お年寄りのための福祉施設「和寿園」を設立して、老人福祉に努めた。

林正基の写真

◆林 正基(はやしまさもと)
-先見の明あり、「篠山市」の実現より他に多紀郡の発展はなしと主張-
西紀町長として22年間(昭和34~56(1959~1981))活躍

旧西紀町長林正基氏は、昭和44(1969)年9月発行の「郷友」誌に、町長の経験を踏まえて、かねてから胸が裂けんばかりに考えていた多紀郡の一本化の理由を次の項目に述べる内容によって主張したのである。

一、意識革命をしなくてはならない
多紀郡の発展にとって一番大切なことは、利己主義で、非合理的で、非協調的な「考え方」ではだめであるということである。団結して皆で共共に良くしようと決意し、多紀根性から脱皮して世界人的根性に衣替えすることである。大同団結した時こそ多紀郡の発展は火を見るよりも明らかである。


ニ、多紀郡は沈滞している
「篠山市」 の実現より他になし
終戦後武力を捨てたわが国は、経済立国の方針をとった。そして遂に世界第2位の生産力をあげた。しかし国民一人一人の財布の重さは世界第21位である。多紀郡の社会開発はおくれ、社会福祉は停滞し、過疎過密の程度も日を追うて深刻化しっつある。郡民の一人一人が自分白身に近代化を阻む要因を内蔵している。多紀郡民根性そのものがそうさせているのである。

三、隣郡との実力を比較して

有馬郡の驚異的発展は、裏六甲であり、近畿整備圏に参加できる立地条件がある。郡民の意思を集結するために三田市を実現したという先見の明と、郡民の英断は見逃してはならない。
また、氷上郡は、進歩的で商人であり、多紀郡は保守的であり、形式的であり、官僚的であり、利己的である。氷上郡は会合を開いても百家争鳴で徹底的に論議する。合意すれば一致協力して実現に邁進する。一方多紀郡は、会合しても黙して語らず、会はあっけなくおひらきとなり、会合が済んでから暗闇の中で大演説をする。このようなことでは地域社会の発展は望むべくもない。
一日も早く篠山市制を実現して、民主的にして柔軟性に富んだ若々しい篠山市ができることを念じているものである。
林町長が三十数年前にこのように提唱したことは、今日実現して大篠山市となった。今此に林町長の先見の明を讃えると共に、旧多紀郡民性がもっている長所の反面の短所から脱皮して、市内に国境なし、オープンで市の発展を図らなければならないと考え敢て先賢林正基氏をクローズアップした次第である。