欽古堂亀祐(型物の名工 王地山焼)

更新日:2021年10月14日

欽古堂亀祐

王地山焼きを指導した型物の名工 欽古堂亀祐

文政・天保年間(1818~44)に活躍した京都の陶工、本名を中村亀助、後の丹波屋亀祐、さらに欽古堂亀祐と称した。 もとは京伏見の人形師の家に生まれ、磁祖とうたわれた奥田穎川に陶法を学んだ。 享和年間(1801~4)の頃、三田青磁窯の神田宗兵衛に招かれ磁器の製法を伝え、さらに当時老中であった青山下野守忠裕より下命を受けて、丹波国篠山の藩窯王地山焼を指導した。
亀祐は文政年間から天保初年にかけて、京に居を構えながら三田や篠山へ往来していたことが亀祐の手にかかる在銘の作品や型で知ることができる。「文政8年(1825)酉年冬、欽古堂亀裕作」の柿本人麻呂の置物は王地山焼の作品群の中で屈指の名品であるが、顔造の見事さは人形師出身の亀祐の技量が存分に発揮された作品である。亀祐の本領は人麻呂や布袋などの置物にあり、その型はその後も大切に使われたようだ。亀祐の仕事はのち「陶器指南」という磁器製造書として集約される。これによると窯式、窯積、諸道具、素地、彩薬の調合法、青磁の法、錦窯および交跡窯の法など、多くの図を挿入して説明している。
欽古堂亀祐が天保8年3月、73才で世を去って150年を迎えた昭和63年(1988)、亀祐が指導し、焼かれた王地山焼が廃窯後百十数年振りに同じ王地山の地で復興した。