平尾竹霞(近代南画家)

更新日:2021年10月14日

平尾竹霞

篠山の生んだ近代南画家 平尾竹霞(ひらおちくか)

木々が書かれた絵

平尾竹霞は安政3年(1856)丹波篠山城下河原町の王地山焼陶画士平尾惣左衛門( そうざえもん)(画号竹郭)の長男として生まれ、名を織之助(おりのすけ)といい、竹霞はその号です。学問を篠山藩学者渡辺弗措に学び、19歳のとき絵を志して京都に出て円山四条派の日本画を学びました。のち南画家の田能村直入(たのむらちょくにゅう)の門に入り、絵の研鑽に努めました。その後、直入とともに京都府画学校の設立に奔走するなど、絵画界の発展のために力を注ぎました。
自らの画風を打ち立て、嵐峡(らんきょう)12景和歌浦(わかうら)21勝の大作を次々に発表。嵐峡12景にいたっては、京都保津川の保津峡に3年間分け入り、四季に変わりゆくすがたを画帳に収めた労作でした。そしてこのような中、日本南画協会の設立に尽力し、画壇の重鎮として活躍するとともに、京都三条に高風閣(こうふうかく)という茶屋を建て、文人墨客と広く交わりました。多くの作品を残した篠山出身の南画家平尾竹霞も昭和14年(1939)83歳をもって不帰の客となってしまいました。