桂舟弘延(篠山藩御用絵師)

更新日:2021年10月19日

桂舟弘延

篠山藩御用絵師 桂舟弘延

 

板谷家は代々江戸幕府の御用を勤めた絵師で、江戸時代の大和絵住吉派から分かれた流派である。
弘延は初代慶舟広当から数えて5代目に当たり、文政2年(1819)幕府御用絵師桂舟広隆の二男として生まれた。 兄桂意広寿が早逝したため、天保8年(1837)家督を継いだ。そして、弘延は幕府や諸大名の仕事を多く手がけ、弘化元年(1844)には江戸城本丸の障壁の大作を描き、さらに安政3年(1856)にはオランダ国王に贈る屏風絵を狩野勝川院雅信や住吉内記弘貫らと製作にあたっている。
板谷家と篠山青山家のかかわりは、初代慶舟の父が分家の青山大膳亮の家臣ということや、篠山藩主となった忠朝、忠高が分家の出身ということもあっての上である。 弘延についてのかかわりは、板谷家の由緒書きによると安政4年(1857)3月、青山家の藩邸出向いたことが記されてあり、その後、青山忠良への出稽古を含め数回に及んでいる。
桂舟弘延は多くの作品を描き、住吉弘貫らとともに復興やまと絵をめざして、活躍したがおしくも40歳の若さで、安政6年(1859)9月20日、世を去った。