波多野秀治(悲運の武将)

更新日:2021年10月19日

波多野秀治

悲運の武将 波多野秀治

波多野氏は室町時代の後期、細川政元から波多野清秀が丹波多紀郡に所領をあたえられてから、天正7年(1579)に八上城に滅亡するまで4代にわたって、南丹波に勢力を誇った豪族です。その中でも最も有名なのは4代秀治で、悲運の武将としてよく知られています。
波多野秀治は父晴通とともに弘治3年(1557)、三好長慶、松永久秀らによって八上城を占拠され、10年間流浪の生活を送りますが、その後、黒井城主荻野直正や別所氏の援助を受けて永禄9年(1566)八上城を奪回し、再び丹波一円に勢力を広げました。 永禄11年(1568)、織田信長が上洛すると、太刀や馬を献上して友好を結びましたが、信長、将軍足利義昭の関係が不仲になるにつれ、信長から離れて義昭側につき、毛利氏と結びました。
天正3年(1575)6月より明智光秀による丹波攻略が始まりました。しだいに丹波一円に戦火は広がり、同6年(1578)から始まった八上城包囲作戦の時、城内では抗戦派、和平派の2派に分かれて対立が激化し、ついに秀治は和平派に捕らえられて光秀方に差し出されました。
6月10日、京都を経て安土に送られ、12日に城下の慈恩寺で磔にされたとも、斬殺されたともいわれています。