市瀬雨山(漢学者で初代鳳鳴塾長)

更新日:2021年10月19日

市瀬雨山

漢学者で初代鳳鳴塾長となった 市瀬雨山

市瀬雨山は名を禎太郎といい、雨山はその号です。
幕末の万延元年(1860)篠山に生まれました。 明治8年(1875)16歳で東京に出て、漢学者島田重礼の「隻桂舎」に入り漢学を修めました。明治11年(1878)にはその塾頭も努めましたが、翌年に帰郷して多紀郡役所に勤めるかたわら、私邸に「竹翠雨香処」という私塾を開き郷土の子弟教育にあたりました。その人柄を慕って集まる塾生は多くありました。
明治15年(1882)25歳で篠山中学校長となり、さらに鳳鳴義塾の創建に尽力し、初代塾長に選ばれました。その後は旧制一高、旧制山口高校の教授、山形、滋賀の中学校長を歴任したあと、明治35年(1902)鳳鳴中学校長(鳳鳴義塾の後)となり、質実剛健でなる校風を築き上げました。
明治41年(1908)惜しまれつつ世を去りました。