柳亀堂亀七(型物造りの名工)

更新日:2021年10月23日

柳亀堂亀七

型物造りの名工 柳亀堂亀七

篠山藩窯王地山焼は文政初年(1818年頃)、時の篠山藩主青山忠裕が京の陶工欽古堂亀祐を招き、篠山城下の東、王地山の麓に築窯したのが始まりです。
藩窯として確立した王地山焼は欽古堂亀祐指導のもと型物造りの作品が多く作られました。
そして、この王地山焼で多くの陶工が活躍しましたが、その中でも、欽古堂亀祐を師と仰ぎその跡を継ぎ、型物造りの第一人者となったのが、現在の兵庫県多紀郡丹南町小枕に住んでいた柳亀堂亀七です。
亀七にこんな逸話が残っています。「亀七は、元は大工で畑弥太夫といいました手先が器用で大工仕事の合間に暇さえあれば彫り物をしてはその出来栄えを楽しんでいました。ところが丁度年頃になった時、近所の美しい娘に惚れこみ、早速何度も縁談を申し込みましたが、なかなか良い返事がもらえません。そこで弥太夫は自分の彫刻の腕前でもって作り上げた櫛と笄の陶型を王地山焼の窯元へ持参して頼み込み、訳を話して焼き上げてもらいました。出来あがった焼き物の櫛と笄を意中の娘に送り、めでたく結ばれたということです。 このことを契機に王地山焼の陶工となり、藩主青山忠裕より柳亀堂という号を授けられたといいます」。
亀七は彫刻にすぐれ、師亀祐に負けないほどの精緻な型を多く作りました。篠山藩窯王地山焼は焼かれた期間はわずか50数年ですが、日本屈指の磁器窯と呼ばれるのは柳亀堂亀七らの技術によるところが大変多いを思います。