杜氏ものがたり

更新日:2020年05月15日

杜氏ものがたり1

甘辛しゃんのふるさととして

酒造りの様子

デカンショ節には次のような歌詞があります。 「灘のお酒はどなたが造る おらが自慢の丹波杜氏」 篠山人にとって丹波杜氏は誇りでもあります。 NHKドラマ「甘辛しゃん」でも描かれているように丹波の人たちは卓越した技術を持った職能集団として灘五郷をはじめ、全国の酒造家に雇われ、今日の酒文化を築いてきました。 二毛作のできない貧しい農村にとって、百日稼ぎと呼ばれた「出稼ぎ」は大きな冬の副業でしたが、労働は厳しく、夜中の12時から翌日夕方まで朝と昼にそれぞれ1時間しか休まなかったといいます。 今日、近代化の波は大きく労働形態を変化させつつありますが、働く人たちの技術と心意気は変わることなく受け継がれています。

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丹波杜氏の由来

丹波杜氏画像

●デカンショ節に「丹波篠山、山奥なれど 霧の降るときゃ 海の底」と霧深いことで有名です。昼夜の温度差は大きく厳しい自然環境は二毛作のできない土地として、江戸時代の農民は裏作に変わる副収入として酒造出稼ぎを見つけました。

●歴史は古く丹波杜氏組合発行の「丹波杜氏」に、江戸時代中期の1755年に丹波杜氏が現れたと記されてます。
篠山曽我部(現在の篠山町日置)の庄右衛門が池田郷の大和屋本店の杜氏として銘酒山印や滝の水を造ったのが、丹波杜氏最古の記録です。江戸時代末期までに約50人が記録されています。そして今日まで200年以上の伝統をもつ「丹波杜氏」として実績を誇ってきたました。
さて、なぜ出稼ぎが起こったか、なぜ酒造出稼ぎが盛んになったか、その要因は次のように考えられます。(篠山町百年史から)
 

  1. 江戸時代、藩の年貢の取立がきびしかったこと。
    これは江戸時代における郡内の一揆の起こった回数が、県内各藩の中で最も多かった。再々飢きんに遭遇したほか、篠山藩は徳川譜代の大名として重きをなしていたので、藩の交際費も多く必要としたと思われる。
  2. 多紀郡の気象条件は冬季における寒気がきびしく、加えて郡内ほとんどの田地が湿田で、稲作以外の農業に適さず、米のほかには目ぼしい収入のなかったこと。
  3. 物々交換や自給自足時代から貨幣制度時代へと発展する中で、貨幣価値が大きく高まってきたこと。


これらのことから、農家の経済が苦しく、幸い冬季のみを利用し、しかも米と結びついた比較的有利な酒造りの出稼ぎを選んだのでしょう。

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義民・市原清兵衛伝説

市原清兵衛石碑

丹波篠山地方は元禄時代(1688年~1703年)の頃から農閑期に池田や伊丹に酒造稼ぎに行くことが盛んになった。ところが宝暦、天明(1751年~1788年)の頃になると各地で天災が続き、凶作が続きました。
篠山藩においてはこれらの原因として農民が酒造稼ぎ、その他で稼ぎに出るため田畑の管理が充分出来ないことだとして、厳しい「出稼ぎ禁足令」を出し、違反する者については、過酷な処罰でのぞんだといいます。篠山藩内村々においては、この「禁足令」が長引けば生活がたちいかないとして、度々寄合がもたれたが得策もないままでありました。


これらの村々の窮状を知った、今田市原村の清兵衛は寛政12年(1800年)子息佐七とともにひそかに江戸に上り、藩主に直訴におよびました。清兵衛、佐七父子は取らえられ入牢を申し渡されたが、命をかけた清兵衛父子の願いは2年後に実を結び藩は酒造稼ぎについて、秋彼岸より春3月までの100日間の出稼ぎを許可し、さらに杜氏と脇杜氏にかぎって、酒焚(火入れ)、土用洗い、渋染めの夏居30日を認めたのでした。
その後、益々酒造出稼ぎは盛んになったが藩は文化10年(1812)「御条目」を公布し、酒造出稼ぎについては届出制にしました。清兵衛父子はその後、永牢から解放され、藩内村々の人達から温かく迎えられました。しかし藩は1石の年貢に1石5升を納めよという厳しい年貢の取りたてを行ったため清兵衛父子は再度、直訴におよんだが、その途中、相模藤沢の宿で藩の刺客によって殺されたとも永久追放されたとも、伝えられていますが明らかではありません。


命をかけて『酒造出稼ぎ禁足令』をといてくれた、市原村の清兵衛、佐七父子、毎年丹波杜氏は清兵衛の碑の前で遺徳を偲び、今年もよい酒が出来るよう、誓って蔵入りするのです。

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現代の清兵衛・大対勇三郎

大対勇三郎像の画像

大対勇三郎翁は1888年後川村後川上に生まれました。性格は温厚で極めて勤勉で、西宮市西宮酒造会社に56年間勤務しました。
1955年多紀郡の酒造で稼ぎ者は2026人を数え、その収入は当時の家計の25%を占めていたといわれています。
しかし、酒造出稼ぎの門は、すべての人たちに開かれていたわけではなく、被差別部落の人たちには固く閉ざされていました。
1956年当時の城東町では教育委員長であった金剛寺住職北村昌亮老僧を中心にして全村教育活動がおこりました。話し合いの中で当面する大きな願いのひとつとして酒造出稼ぎの問題が出されました。門戸開放の取り組みは約20人が村内の杜氏を1軒1軒回ることからはじめられました。一方で第1号としてまじめな東田青年に白羽の矢を立てました。
そのような中で大対勇三郎杜氏が自らの力で偏見をうち破り、会社と掛け合いその門をこじ開けました。10月8日東田青年のもとに大対杜氏から「採用します」という朗報が届けられました。大対杜氏にとっては杜氏生命をかけた英断でした。
 

〇大対勇三郎さんを想う

地区住民を酒造に採用することは前代未聞なことで、大変な勇気と覚悟が要っただろうと思います。当時(1956年)70歳ぐらいで背が高く、がっしりした温厚な感じの人でした。72キロ(酒樽四斗)を軽々運ばれていた記憶があります。まさに「気は優しくて力持ち」といった包容力のある人でした。
昇進を推挙するときは会社の方に身の上のことや仕事に対する勤務成績を評価して書面や口答で紹介と保証までされたと工場長より聞かされ感銘しました。
初めての酒造期を終わり帰郷すれば大対さんはまじめでよく働き模範生であると評判をしてくださった。無我夢中で過ごした一年であったが、翌年からの私の励みになり、この出会いで今日の私があるといっても過言ではないと思います。(東田昌)

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デカンショ節に見る丹波杜氏

デカンショ踊りの画像

●デカンショ節は替え歌も広く流布し、歌詞もたくさんありますが、一般に使われている25の歌詞にも酒を扱ったものがあります。

「酒は飲め飲め茶釜で沸かせお神酒上がらぬ神はない」

は有名ですが、

「寒さしのんでつくりし酒で春の三三九度の式」
「灘のお酒はどなたが造るおらが自慢の丹波杜氏」

丹波杜氏に込められた想いを感じさせます。

●デカンショ節はちょうど100年前の1898年千葉の館山の沖で旧制の一高生が篠山出身者が唄う歌を聞いて寮へ持ち帰り、広めたとされます。そのため、デカンショという言葉の起源は「デカルトカントショーペンハーウェル」の3人の哲学者の頭の文字を採ったとする有力な根拠になっています。

●その昔から多紀郡内にみつ節として歌い継がれ、その歌詞のなかには

「デコンショデコンショで半年暮らすあとの半年泣いて暮らす」

というのがあり、明らかにデカンショの起源となる本歌です。

夫が冬季出稼ぎに出かけ、残された妻の哀歌だとされています。一方で丹波杜氏たちが寝る間もなくつらく苦しい酒造りの中で「ぐっすりと寝てみたい」という願いがこの歌詞になったともいわれています。
いずれにせよ出稼ぎを唄ったもので、「でかせぎしよう」から変化したという説もあります。

●実際には、つらく長い冬が終わり、出稼ぎから帰ってきた蔵人たちを待っているのは十分な睡眠などあるはずがありません。苗床、田植えから稲刈り、臼すりまで眠る間もなく働かなければなりませんでした。
篠山地方では近隣の地方と比べて田植えは非常に早く行われます。一日も早く農作業を終え、杜氏にいくことからだと思われます。
男だけでなく女たちはまず、家の田植えを早く済ませ、1ヵ月近く近隣の地方へ早乙女として集団で泊まりがけで田植えに出かけていました。男と同様辛抱強く、働きものの多紀郡の早乙女として大変有名でした。手間のいる田植え作業が機械化されるほんの30年ほど前までのことです。

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減り続ける丹波杜氏

現代の丹波杜氏作業風景の画像

多紀郡からの酒造出稼ぎは、徳川末期から明治にかけてものすごい勢いで伸び、1905年には出稼総数5500人(うち杜氏600人)と記録され、当時阪鶴鉄道(現在の福知山線)は、出稼者に毎年期間を定めて運賃2割5分を割引したということです。このころが出稼者数から見ると全盛時代であったということができます。

●近年における酒造出稼
明治・大正期における、いわゆる酒造出稼黄金時代は過ぎ、年々減少の一途をたどってきました。そして従来は酒造りは男の職場と限られてましたが1967年からは初めて女性が進出しました。「甘辛しゃん」の主人公榊泉が酒造りをめざした頃とほぼ時期的に符合しています。
これは伝統の職場も人手不足になったことを物語るものであり、1978年においては、酒造出稼者1091人中に女性60人が含まれています。酒造出稼者が全盛時代の4分の1、あるいは5分の1に減少したこの要因は次のように考えられます。


減少し始めたころは、

長い月日に亘って家族と別れての生活は、特に若い人たちに敬遠されるようになったこと。

醸造業務は微生物培養応用の特殊業務であるため、ある程度の深夜労働は避けられなかったこと。

出稼者に年齢制限(高齢)がなく、職場に幾分封建的なところがあったこと。


そして、近年に至っては

経済の高度成長によって、他産業への就職が多くなったこと。

酒造工場の近代化が進み、従来ほど人手を要しなくなったこと。


●こうして、多紀郡における酒造出稼ぎは大きな消長の中で、近年郡内には地酒メーカーのほかに灘の「大関」「黄桜」「桜酒造」「五百万石」などの酒蔵工場が建設され、通勤就労ができることになったことは、全国に誇った丹波杜氏の里として極めて意義深いものがあります。

●杜氏の平均年齢が高齢化し、一方で機械化が進むことにより、近い将来丹波杜氏が姿を消すのでしょうか。いくら機械化が進んだとしても、やはり人の手による熟練された技術とかんが加わらなければ何とも味気ない気がします。
丹波杜氏は篠山のもうひとつの財産です。移りゆく時代の流れでも誇りうる地方の財産として守っていきたいものです。

甘辛しゃん情報

NHK朝の連続テレビ小説「甘辛しゃん」

甘辛しゃんのあらすじ

物語は1960年杜氏のふるさと丹波篠山から始まる

NHK1997年度後期連続テレビ小説に「甘辛しゃん」が始まりました。この物語は主人公の榊泉は篠山で生まれ育つという設定になっています。そして、篠山で多くのシーンをロケされています。
1997年4月24日記者発表された「制作発表資料」をもとにその内容を紹介します。 

<あらすじ>
「農家育ちのシンデレラ」
~故郷の川、宮水となって灘に湧き出る!

○1960年(昭和35年)、杜氏の故郷、丹波篠山。泉は農村育ちの11歳―。

冬は蔵人頭として働いてきた父なき後、女手一つで育ててくれた母とふたりぐらしの貧しい生活だが、美しい自然の中で、おおらかに育っていた。
そして秋。記録的な被害をもたらした台風がこの地域を襲う。稲作に壊滅的な被害を被った母は、遂に家作と田畑を処分し、灘の酒造家に住み込みで働くことを決意した。母に従い、寂しさを振り切って丹波を後にする泉。二人が訪れたのは二百年の伝統を誇る格式としきたりの旧家だった。旧家ゆえの伝統と秩序の中で、泉は持ち前の好奇心と明るさで新しい環境に馴染んでいく。そして一歳年下で、母親を病気で失っていた当主の息子とも打ち解けていく。
そして驚くべき事態が泉を狼狽させる。母の健康的な暖かさと賢さに心惹かれた当主が母に再婚を乞うたのだった。当初、少女らしい複雑な思いでこの再婚話に反発した泉であったが、母がやっと幸せになれるのだと気づき、ようやく心からの祝福を送る。
だが、貧農の生まれにもかかわらず、図らずも旧家の娘となってしまった泉のこれからは、決して平坦な者ではなかった―。


<ヒロインのプロフィール>

○榊泉(さかきいずみ)……佐藤夕美子
好奇心旺盛で笑顔の明るい少女は、杜氏の里・兵庫県篠山町の農家で生まれ育った。父の急死そして台風の甚大な被害から、母の決断に従い11歳の秋に故郷を後にする。新しい生活の場は酒造りの町・神戸市灘。古くから伝わる伝統の酒造家に母子は住み込んで働く。やがて酒造りの魅力にとり憑かれた泉は、数々の偏見や困難を乗り越え、自らが信じる新しい酒「純米吟醸酒」の醸造に情熱を燃やし、取り込んでいく。

○佐藤夕美子(さとうゆみこ)
1978年7月10日東京都生まれ18歳。現在、亜細亜大学経済学部1年在学中。87年にミュージカル「アニー」の子役・テッシー役でデビュー。テレビの連続ドラマは、ANB「八神君ちの家庭の事情」に次いで2度目。2年前より学業に専念するために活動を休止、再開するにあたって今回のNHK「連続テレビ小説」出演者オーディションに応募した。今まで学業中心に活動してきたため、とてもフレッシュな存在である。19歳から40歳代半ばまでを演じる予定。趣味絵画・茶道・スノーボード。特技剣道・タップダンス。(所属マザーシップ)


<作者のプロフィール>

○宮村優子(みやむらゆうこ)
1958年、東京生まれ。早稲田大学第二文学部文芸学科卒業後、雑誌フリーライター、企画製作会社勤務を経て、84年「25歳たち~危うい関係~」第11話で、シナリオライターとしてデビュー。
NHKでは、連続テレビ小説「君の名は」(第2部結婚編・第4部志摩編)が初執筆。93年に「生きがいドラマシリーズ・銀の雫」、土曜ドラマ「おばさん咲いた」、94年に連続テレビ小説「ぴあの」、ドラマ新銀河「つばさ」、「赤ちゃんが来た」など、女性のしなやかな感性を生かした作品を次々と発表している。
その他、「ハーフポテトな俺たち」「外科医・有森冴子」「君だけに愛を」(NTV)「子子家族は危機一髪!」(TBS)等を執筆している。


<タイトルの由来>

~甘辛しゃん~
酒の味を表す甘辛は良く知られていますが、「しゃん」は?
灘の最高の酒をたたえる言葉として

”しゃんとあがった秋晴れの味”という表現があります。

蔵人だったヒロインの父もこの「しゃんとあがった味」が目標でした。
そして意味も分からず父の言葉として覚えていたヒロインも、やがてこの「しゃん」とした味の酒づくりを目指すこととなります。

甘辛しゃん。酒の味を表す言葉としてだけでなく、人生の機微を表す言葉ともいえます。また「しゃん」には、”素敵な女性”という意味もあります。
関西的な響きもあるこのタイトル、甘いも辛いもかみ分けた素敵な女性・ヒロインをこのドラマで描き、しゃんとあがったドラマを創りたいと思います。ご期待下さい。


<ドラマのポイント>

”母と娘”
世代の違う二人の女性・それぞれの幸せ
ヒロインの母は大正十四年生まれ。戦後の価値観の中で育った女性です。一方、ヒロインは昭和二十四年生まれ。戦後の新しい価値観の下で育った団塊の世代です。現代の年齢で言えば七十歳と、四十代半ばの二世代の女性です。この二人が伝統と格式の酒造家へ入り、それぞれの生き方を選びます。旧家の中で伝統を守りながら家族のために生きる母。新しい時代の要素を取り入れることによって初めて伝統は生き続けると考え、仕事に情熱を注ぐ娘。互いに異なったベクトルを描く”母と娘”が、そのぶつかり合いの中で母と娘の絆を浮き彫りにします。

姉と弟、そして弟の求愛
ヒロインの母は、子連れで酒造家へ嫁ぎます。互いに子持ちの再婚です。全く生活の異なった二つの家族が結合し、摩擦エネルギーを放出しながら新しい家族を形成していきます。そして、血のつながらない弟からヒロインへの求愛。ヒロインはこの愛を拒みますが、後々結婚したヒロイン夫婦と弟の間では姉弟愛を超えた関係が続きます。

神戸
震災から二年余りが過ぎた神戸。私たちはこの神戸を舞台に「元気が出るドラマ」を作りたいと考えました。灘の酒造家の皆さんも大きな被害を受け、木造の蔵はほとんど倒壊しました。しかし、そうした災害から力強く立ち直った皆さんに大きな感銘を受けました。取材でお聞きしたお話をドラマの最後のクライマックスにもってきたいと考えています。

戦後・ドラマの時代背景
団塊の世代・戦後の自由教育のトップランナーであるヒロイン。何事にも興味を持ち、明るく積極的に取り組むヒロインは戦後の女性の象徴でもあります。この物語は、そんなヒロインのサクセスストーリーです。そして、ヒロインがとび込んだ酒造業界を通して戦後の食文化史も描きたいと考えています。前作「あぐり」は明治から1960年代までを描きますが、この作品では、1960年から現代まで描きます。二作で明治から現代までの女性史の完成です。


<作者のことば>

宮村優子

母親というのは、娘にとってなかなかやっかいな存在です。いじめられて帰ってきた時、ポンポンと背中を叩いて、好きなだけ涙を流させてくれた手。
ヘタクソなソナチネの演奏に、誰より真っ先に拍手を送ってくれたピアノの発表会。
ぬるくなった湯たんぽのお湯で一緒に顔を洗った冬の朝。
あんなに愛され、当たり前のように受け入れてきた愛情なのに、ある日突然それを素直に受け取れなくなってしまう。そして、時にはその愛情を裏切り、悲しませたり、傷つけたり。
それが自立ということの始まりなのかもしれません。
貧しく慎ましい暮らしの中で母と二人、支え合いながら生きてきたヒロインが、自分の足で歩きだし、やがて人生の「極上の一滴」を求めて酒造りに賭ける青春の旅を、母親が子を育てることの苦しみ、喜びと重なるように描いていきたいと思います。
何かを育てる思い、誰かをいたわる気持ち、生命を慈しむ心・・・・・・。
そうした「母親的なもの」とは、実は今、男女の区別無く現代人がもっとも大切にしなくてはならないものではないでしょうか。
灘では上がりのよい酒を「秋晴れ」の味、と呼ぶそうです。しゃんとあがった高い秋空のようなキレのよい「秋晴れ」のドラマ、どうぞご堪能下さい!

あのシーンはここだ!撮影現場のすべて

1997年10月6日の放映が始まってから、最も問い合わせが多かったのがこれ!どこが泉のふるさとですかと問われても、撮影は広範囲にわたり特定はできないということが正解です。ただし、繰り返し流された農村風景は筱見です。しいていえば原風景はここにあるのではないでしょうか。
ちなみに桂文珍さんの生家もこの近くにあります。

甘辛しゃんロケマップ

●第1次ロケ1997年6月6日~11日

旅館近くの道7堀端(篠山城跡南)
雨のシーンですが、本当雨が降っていました。近くには武家屋敷群があります

篠山町の町並み6河原町妻入り商家群
篠山のロケといえば河原町が定番。1950年代~60年代の雰囲気を今に伝えます。

神沢家8小枕
国道372号線を大阪方面に向かって走ると右山麓にくずやあり。

寺・境内1九頭女神社
ラジオ体操風景

小学校5八上小学校丹波篠山今昔物語を参考
これまた映画などのロケの定番。カラオケの舞台としてもたびたび登場。

滝風景1筱見四十八滝
始終八つの滝が流れることからこの名前が付いています

洞窟2愛染窟
泉と拓也の出会い。お話の重要なポイント。酒造りの原点!?

消防団員出動9曽地奥
消防団員の皆さん。ご協力大変ありがとうございました。

●第2次ロケ1997年7月3日~7月6日

耕耘機の説明会3畑宮
1960年当時耕耘機は農家所得の1年半分。大変高価のものでした。

水遊び風景10羽束川上流篭坊温泉丹波篠山五十三次参照
清流の代名詞のような所です。温泉地でもあります。

水害にあった田1筱見
JAささやまの絶大な協力で季節はずれの稲穂を準備できました。

田園風景1筱見
樋口可南子さん運転する耕耘機が田んぼにはまるシーン。

神沢本家4西八上
篠山の典型的な農家。最近はくずやも少なくなりました。

お祭り風景3瀬利
子役の太鼓の修得は極めてスムーズ。さすが。
 

甘辛しゃん第1次ロケの記録

1997年6月6日から11日まで1週間にわたり、篠山町を中心とする多紀郡内でロケが行われました。
6日は、江戸末期から明治初期 の形態を残す妻入り商家が軒を連ね、観光スポットとしても知られる河原町などで撮影しました。
泉が酒造家の一人息子、榊拓也と運命的に出会い。
澄んだ川で2人が水遊びの最中、いなくなった娘を心配して母親が通りを捜すシーン。
周辺には約40人のスタッフが 詰め掛け、近所の人や観光客らが遠巻きにしてその様子を眺めていました。
6日は雨が降りましたが、ちょうど雨のシーン、それが終わると、雨がやみと絵に描いたような連続にスタッフもこんな事はめったにないと変な感心。
今回のロケは、第1週放送分の撮影で、篠山町後川羽束川や八上小学校、筱見四十八滝、曽地中など同町のほぼ全域にわたるほか、多紀郡丹南町で農家を西紀町では洞窟の撮影が行われました。
また7月はじめにも第二次の篠山ロケを予定しています。次は植木等などの役者も篠山入りすることになっていま

ロケ撮影時の様子。若い男女の4人組が中心となって会話している。

木造の八上小学校で1950年代

撮影で実際に耕転機を動かしている様子。

耕耘機を試しに動かす樋口可南子さん。ちょっと心配顔のスタッフ

女優によるの演技の様子。

泉役の山下結穂さん(農家で)

女性が3人で談笑している

地元のエキストラ
行商のおばさん役がよく似合っています

真剣な表情で制作関係者らがロケを行っている。

真剣な表情のスタッフと役者さん