福住シンポジウム(市長日記H25.1.22)

更新日:2020年03月24日

平成25年1月22日(火曜日)

 篠山市福住のまちなみが、昨年12月28日、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことを記念し、福住小学校でシンポジウムを開催しました。

 大寒の日で、寒い中でしたが、約170人もの多くの方に出席して頂きました。

 はじめに、文化庁の文化財調査官島田敏男さんから「このたびの選定を、まちの再生のきっかけにしてほしい。保存は前向きなことです。主役は市民の皆さんです。」などとお話しをされました。

 また、調査にあたって頂いた神戸大学の黒田龍二さんから「福住は、農家が街道に並び、町家町場になっていく(兼業化していく)過程を示しているところに大きな価値がある。末永く残していってほしい。」などと、お話しをされました。

 小西県議からは「福住、日置、八上、城下、古市、立杭と、篠山の誇る歴史の街道だ。」とのあいさつをされました。

 これから、いかにまちづくりをしていくか、活性化や若い人の定着に結びつけるかが課題です。

 篠山市も地域の方とともに、できるだけのことをしていきたいし、日本中にPRしていきます。

 名前からして「福が住む」良い所なのです。

シンポジウムの会場の前方に司会者の席や、意見発表者の席が設けられており、右から二番目の男性がマイクを持って話をしている様子の写真

古代・中世の福住地区

 古代には丹波国八郷のひとつ真継郷に属しており、現在の小野新周辺に山陰道の駅家として小野駅が置かれました。平安・鎌倉期には丹波国は籾井庄の一部であったと伝えられています。

 室町期には足利将軍家の内衆を書き上げた『応仁武鑑』の中に「丹波福住 一万五百石 仁木兵部太夫成長」と記されており、福住一帯が仁木氏の支配下にあったことがわかります。

 戦国期になると、多紀郡では管領細川氏の被官であった波多野氏が勢力を伸ばし、高城山に築いた八上城を中心とする勢力圏を形成します。

 福住地区は波多野氏の被官であった籾井氏の拠点でした。永正年間には福住の籾井川を挟んだ対岸の山上に籾井城を築くとともに、安口の籾井川対岸には安口城、安口西砦といった支城を設けていました。

近世の福住地区

 天正6年(1578)の明智光秀による丹波攻略により、波多野氏を中心とした丹波衆は勢力を失います。その後、丹波国の領主は度々入れ替わり、慶長14年(1609)に篠山藩主として入部した松平康重は、篠山に新たな城を造営しました。

 丹波国が諸大名の所領として細分化される過程で、福住村・川原村は篠山藩領、安口村・西野々村は亀山藩領へ編入されたため、幕藩体制下では別々の藩領として存在することとなります。

 そして、福住村は山陰街道の宿駅に指定されます。篠山藩は篠山城下を中心とする街道整備のなかで、他にも山陰街道沿いの「追入村」、摂津・播磨を結ぶ街道沿いの「古市村」をそれぞれ宿駅にしており、いずれの村も近世を通して宿場町として繁栄します。

 一方、川原村、安口村、西野々村は農村集落として位置づけられますが、福住が宿場町となったことから、農業と兼業で旅籠や茶店などを営む家もありました。

近代・現代の福住地区

 明治維新にともない宿駅の制度は廃止されますが、明治中期頃までは旅客交通量、貨物輸送量の増加により宿場町として繁栄を続けます。

 こうした福住の繁栄も、明治32年(1899)年に京都・園部間を結ぶ京都鉄道、神崎・福知山間を結ぶ阪鶴鉄道(現JR福知山線)が開通したことは福住地区に大きな打撃を与え、旅客を対象とする旅籠や商店は徐々に廃業していきました。

 その結果、特定の産業を持たない福住は農業を中心とした農村集落としての性格を強めます。

 明治以降、福住地区は近代化の影響をあまり受けず、そのことが、伝統的な町並みを現在まで残すことにつながったともいえます。

 現在、山陰街道沿いには福住から西野々にかけて、江戸後期から明治期に建てられた妻入民家を中心とした町並みが続いており、江戸期以来宿場町を中心として発展した面影を色濃くとどめています。

福住地区の街並みと建築 福住下 木穴木 福住中 福住上 川原 安口西 安口東 西野々地区の写真

福住地区の景観的特徴

 福住地区の町並みは、その周囲を緑豊かな丹波の山々に囲まれており、四季折々の表情をみせます。

 集落の後背地を形成する農地では、黒豆や米などが作られ、山間に田園風景が展開し、集落に平行して流れる籾井川などが、集落景観の形成に大きな影響を与えています。

 周囲の山には、籾井城をはじめその支城である安口城、安口西砦など中世の城跡が点在し、山麓部の数多くの寺院とともに景観を特徴づけます。

 街道沿いには、一里塚や道標、常夜灯等、歴史的環境を形成する工作物が点在するほか、籾井川の水害対策のための石積みの上に建つ土塀と土蔵の連続が、背後の農地と山並みに調和します。また、現在においても、住吉神社の水無月祭りをはじめとする祭礼行事や、キツネガエリ(フクノカミ)やイノコなどの年中行事も継承されています。

 福住地区には、このような遠い過去から継承されてきた自然、歴史、人の営みなどの、多様な景観的関係文脈が備わることにより、優れた町並みや歴史的景観が創出されています。

 さらに、福住地区は宿場町と農村集落の2つの歴史的景観が1つの街道に沿って連続する、全国的にも非常に貴重な町並みが形成されています。

宿場町の町並みと建築

 近世の福住は宿場町として栄え、街道沿いに連続した商家が町並みを形成しています。

 家屋は妻入で桟瓦葺の屋根を基本とし、1階軒下部分に格子を備え、半間ほど下がった位置から2階が立ち上がります。

宿場町の商家の建物が写っている4枚の写真

農村集落の町並みと建築

 住吉神社から東側、川原、安口、西野々では、街道沿いに連続した農家が町並みを形成しています。

 家屋は福住ほど密に建て揃ってはなく、かつ街道から後退して主屋を配置することで、庭を設け、落ち着いた街道景観を形成します。

 家屋の多くは、妻入で桟瓦葺もしくは茅葺の屋根を持ち、大きな三角の妻面が連続する農村集落景観は、力強く美しい町並みを形成します。

農村集落の農家の建物(家屋)が写っている4枚の写真