篠山の人権史跡(市長日記H28.5.17)

更新日:2020年03月24日

篠山市の人権の歴史を市同教(篠山市人権同和教育研究協議会)の研究班がまとめられました。
その時代時代でのいろんな取り組みが紹介されており、興味深い、まさに命の歴史です。
いくつか紹介します。

「篠山の人権史跡」の冊子が4冊扇形に並べてある下に中身を開いた1冊が長机の上に置いてある写真

篠山城石垣石材の鎮魂碑~犠牲者への供養~

篠山城は、1609(慶長14)年、他藩からの人夫を合わせてのべ8万人が築城に従事した。築城石は、栗栖野、当野などから切り出された。大石運搬により田植えができず、植えた田も踏み荒らされたという。厳しい採石作業のなか多くの命が失われたことを偲び、供養塔が残っている。
また、小坂からも切り出されていた。採石作業は命がけの作業で、採石途上で多くの命が失われた。佐仲ダムには「南無阿弥陀仏」と刻まれた鎮魂の石碑が建っている。

佐仲ダムに建っている「南無阿弥陀仏」と刻まれた鎮魂の石碑の写真

刑場跡 渡瀬橋河原(岡屋河原)~処刑された人々の冥福を祈って~

篠山藩は譜代大名の筆頭で要職に就いた藩主が多く、そのための出費は莫大なものであった。藩財政は困難を極め、農民からの年貢の取り立てが厳しく、多くの一揆が起こった。
一揆の首謀者や罪人を処刑する刑場は、江戸中期までは、高城山山麓、のちに東は曽地河原、西は渡瀬橋(岡屋)河原に定めた。処刑された人々を弔って、供養塔や地蔵尊が河原の側らに祀られている。

渡瀬橋河原に祀られている処刑された人々を弔う供養塔や地蔵尊の写真

「監物橋河原」~大規模一揆集結場所~

1771(明和8)年、前年の大干ばつに対し、藩の減免対策に納得がいかない農民たちが強訴を企て、監物橋河原へ集結した。参集者は3000から4000人にも及び、篠山藩内における江戸期最大規模の一揆となった。
強訴…農民による集団的な直訴行動。年貢減免要求などの闘争形態。

江戸期最大規模の一揆となった集結場所「監物橋河原」の上に架かった、よさこい踊りの銅像が立っている橋のたもとの写真

柿の木地蔵~住民はいつまでも恩を忘れず~

1621(元和7)年、干ばつで、人々は木の芽や草の根まで食べつくし、餓死者が続出した。しかし、その年は柿が豊作で柿で命をつないだ。藩は、不作につき、柿を年貢の代用として納めるよう命じたが、庄屋重兵衛は飢えや病気で苦しみ、死ぬ人々の思いを受けて強訴を決心し、京都所司代へ訴えた。その結果、柿年貢は取りやめになったが、重兵衛ら9名は、はりつけの刑に処せられた。柿の木の下には重兵衛の供養仏として五輪の塔が祀られている。

はりつけの刑に処せられた重兵衛の供養仏として柿の木地蔵が祭られている小さな祠の写真

市原村の清兵衛顕彰碑~義民清兵衛~

今田市原村の清兵衛は、農民の代表として、1800(寛政12)年、篠山藩主青山 忠裕に「冬季の酒造出稼ぎを認めてほしい」と、直訴した。
清兵衛・佐七父子は直訴の罪により入牢を余儀なくされた。それは、10年に及んだ。その後、1811(文化8)年に許され、出獄した。
清兵衛の訴えは認められ1802(享和2)年から酒造出稼ぎに対する政策は緩和された。

農民を代表して直訴した大きな石で作られた市原村の清兵衛顕彰碑の写真

大対 勇三郎翁碑~就労保障の先駆者~

酒造出稼ぎの門はすべての人たちに開かれていたわけではなく、被差別部落の人たちには、かたく閉ざされていた。
1956(昭和31)年、西宮酒造会社の杜氏 大対 勇三郎が初めて、被差別部落の一人の青年を採用して以後、酒造出稼ぎに対する就労の門戸が開かれた。

酒造出稼ぎに対する就労の門戸が開くきっかけをつくった西宮酒造会社の杜氏であった大対 勇三郎の胸から上の石碑の写真