さようなら、人類。(市長日記H28.5.7)

更新日:2020年03月24日

以下は、1971年というから、実に45年も前に、毎日新聞に掲載された新聞広告です。
先日、朝起き会(朝の集いからはじまり、自然に感謝し人と愛和する。人と自然と共生し、「我も人もの仕合せ」を追い求めるなど、倫理の実践を目指されています。)で紹介されました。
45年も以前にこのような警鐘を鳴らされていたことに驚きます。
このゴリラの目を忘れないようにしたいものです。

さようなら、人類。

「ゴリラは、やがて地上から消えます。」
「森の王者」であった私たちゴリラも、絶滅は恐らく、もう時間の問題でしょう。あなたがた人類がどんなに私たちを保護しようとしても、もう、遅すぎます。
あなた方の「文明」が、私たちの生活の場「森林」を、狭めてくるからです。「文明」は、長い間にわたって私たちを撃ち、生け捕りにし、剥製にしました。
(ゴリラが、かつてあなたがたの生活を、一度でもおびやかしたことがあったでしょうか)
進化した哺乳類で、ゴリラほど平和を尊び品位を誇りとしてきたものはありません。集団間の親密さ、互いの思いやり、デリケートな心づかい。それらはゴリラの特性です。人類のように他の動物を食べたり、同族同士で殺し合うような野蛮なことは、考えたこともありません。それがゴリラの伝統でした。誇りでした。
この点で私たちは保守派でした。自然を尊び、平和を愛しすぎたのです。とどまることを知らない進歩派の人類に駆逐されるのも、仕方ないことかもしれません。「自然」は、科学文明の乱暴な挑戦には勝てません。もっとも、もっとデリケートな、バランスを保った「生きもの」だからです。

「遠い昔は親戚でしたが…」
あなたがた人類の祖先と、私たち類人猿とは、地上で一番近しい間がらにあったのではなかったでしょうか。しかし、いま一方は増えて栄え、一方は減り、滅亡の寸前にあります。人間の弱小民族も、かつて似たような運命にあったことを、いま私たちは思い出します。これが運命なのでしょうか。歴史の必然というものなのでしょうか。地上の正義は、結局「力」なのでしょうか。
私たち(ゴリラ)の目を見て下さい。私とは実はあなたです。人類の反映なのです。ついに言葉を持たなかったゴリラの目から、私たちの心を読みとってください。

「人類よ、もっと聡明に」
「文明」を、あなたがたも考え直すときがきています。「文明」は必ず、あなたがた自身を追いつめる、容赦のない「敵」となるでしょう。たとえ月を往復する能力があっても、毎日の生活をもっとうるおいのある、心ゆたかなものにできないなら、それは果たして知恵でしょうか。
病院には病人があふれていますね。空でも、地上でも、海上でも、ひっきりなしに衝突事故がつづいていますね。考えが気に入らないといって、他国にまで兵を出し、人を殺し、森を焼きつくしていますね。
これはゴリラの嘆願でも泣き言でもありません。やがて地上から姿を消すものの、愛のメッセージです。優しい心をとり戻し、勝者らしく品位を保ち、立派に生きて下さい。

さようなら、人類。

1971年9月24日 毎日新聞より

ゴリラの顔の写真