明智光秀の母、お牧の方の供養祭に出席(岐阜県恵那市)(市長日記R1.11.28)

更新日:2020年03月24日

来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映を前に、令和元年11月23日、岐阜県恵那市(えなし)の明智町に赴き、明智光秀の母、お牧の方(大河ドラマではお牧さん)の供養祭に出席し冥福を祈りました。小坂喬峰(こさかたかね)恵那市長をはじめ岐阜県観光局長、日本大正村理事長、地元市民の方々など関係者約50名が参加されました。
お牧さんのお墓は全国でもここ恵那市にしか存在しません。供養祭ではお牧さんの悲しい死を弔うと共に、両市の交流を誓い合いました。

供養台の前に黒いスーツ姿の方々が大勢ならび供養祭がおこなわれている様子

▲ 供養祭の様子

供養する場所の前で手を合わせている市長の様子

▲ お牧の方の墓所にて冥福を祈りました

黒いスーツ姿で小坂喬峰 恵那市長と丹波篠山市長が手を合わせている写真

▲ 小坂喬峰 恵那市長(左)

供養祭参加者が横並びになり、集合している集合写真

▲ 参加者集合写真

所説ありますが、天正7年(1579)6月波多野兄弟が織田信長の命令にて処刑されました。その後、人質となっていたお牧さんは現在の丹波篠山市の八上城にてはりつけにされ殺されました。この原典は遠山信春著『織田軍記』(別名:総見記)からと言われています。その3年後に本能寺の変が起こりました。本能寺の変が起きた大きな要因は、母が殺された明智光秀の恨み説とも言われています。
お墓のすぐ横には樹齢400年以上とも言われる高野槙がそびえ立っています。これはお牧の名にちなんで、当時お墓の建立と共に地元の里人の想いにより植えられたそうです。

青空に向かってのびる大きな高野槙

▲ そびえ立つ高野槙

供養の台に置かれた果物やお酒、お花、焼香などの写真

▲ お牧の方の墓所

お牧の方墓所入り口の石碑には、八上城での波多野秀治との戦いと、お牧の方のはりつけの伝説についての内容が記載されていました。記載内容は以下のとおりです。


『天正七年十月、信長の命によって丹波攻略に向かった明智光秀に対し、八上城を守る波多野秀治は一年有余も籠城を続けた。「もし開城を迫られるならば、波多野一族の保障と、光秀殿の母御を差し出されよ」と秀治は申し出た。光秀の母於牧は、「和平のためならば喜んで人質となりましょう」と断腸の想いの光秀をはげまし、従容として八上城に入った。開城降伏した波多野氏は、恭順の礼を尽くすために安土城に向かったが、信長から即刻切腹を命じられた。八上城ではこの事を知り、光秀の前で母於牧を十字架にかけて磔にした。「いかに君主といえども、母の仇は不倶戴天の仇」。光秀の心に重い澱の固まりが沈んだ。
天正十年五月、「毛利平定のため西国に発向せよ。攻めとり次第、岩見、出雲の両国を与える。ただしこれまで治めていた丹波と近江の志賀、高島両群を召し上げる」という過酷な命が信長から下った。退路を断たれ遮二無二前に進むしかない状態におかれた。この事が智将光秀の誇りを無惨に打ち砕いた。《ときは今 天が下しる五月哉》
出陣を前にした天正十年五月二十八日、愛宕参詣の夜の連歌の会で、微妙な表現で上の句を詠んでいる。まだ秀光の胸中は揺れていた。六月一日、軍を発した孤高の武将光秀は老坂を登りつめ、丹波口の三叉路に至った。右すれば摂津街道を経て備中へ、左に降りれば桂川を越えて京に至る。人生は常に三叉路に立たされている。「敵は本能寺にあり」。
光秀は躊躇なく左へ降り、桂川を渡って京に入り、一路本能寺へと向った。
岐阜県教育委員長 森省三』

八上城での戦いと、はりつけの伝説について書かれた石碑の横に立つ小坂恵那市長と酒井市長

▲ 小坂恵那市長(左)

八上城での戦いと、はりつけの伝説について書かれた石碑の拡大写真

▲ 八上城での戦いと、はりつけの伝説について書かれた石碑