麒麟がくる、あと3回(市長日記R3.1.18)

更新日:2021年01月18日

令和3年1月18日

大河ドラマ『麒麟がくる』もあと3回になりました。だんだん光秀と信長の心が離れていく様子がよく分かります。

 

では、八上城はいつ出るのかと心配になってきました。

 

昨日(1月17日)のドラマは、1578年(天正6年)のできごとでした。

この年はと言うと、1575年に信長から丹波平定を命じられ、1577年に亀山城を築城しています。1578年には園部城落城、苦戦を強いられる八上城と黒井城を分断するため金山城の築城をはじめました。そしてドラマのとおり、三女の玉が細川忠興に嫁いでいます。

 

最終回は本能寺の変が描かれると発表されています。本能寺の変は1582年(天正10年)です。

 

ですから、最終回を除くあと2回で1579年~1581年のことが描かれることになります。

この間に何があったかと言うと、1579年(天正7年)には6月に八上城が落城、8月には黒井城が落城し、丹波攻めが終わります。

そして1580年(天正8年)に、光秀は信長から丹波の国を領国として与えられます。福知山城を建てたり、多くの城を改修、また、川をつけかえたり民衆を大事にした政治をしたと言われています。

 

1581年(天正9年)に「京都御馬揃え」といって、天皇の前で自らの力をアピールする馬揃えを実施し、天下に力を見せつけましたが、他にそれほど大きな出来事はないようです。

 

あとは1582年(天正10年)になって、武田家の討伐、その労をねぎらうため、信長が安土城に家康を出迎えましたが、接待を任された光秀が信長から「このきんかん頭」(少しはげた頭)と言ってたたかれました。

そして、この年の5月27日愛宕山に参拝した光秀は「時は今 雨の下知る さつきかな」の句を詠み、「時は」は自らの出自である「土岐氏」、「雨の下知る」を「天下」とし、天下をとる野心を示したとされます。

そして6月。いよいよ歴史を変える光秀の軍勢が亀山城を出発し、京へ向かうのです。

 

こう見ると、難攻不落の八上城を攻め落としての丹波平定と丹波の国を治めることは大きな歴史的なことです。その中で、光秀は懸命に波多野秀治の命を助けることを望んだのに、信長はこれを無視して処刑、そのうえお牧がはりつけにされたことは光秀と信長の大きなできごととして描かれるのではないでしょうか

 

・・・と期待しています。

 

(参考文献:麒麟がくる完結編(NHK大河ドラマ・ガイド))