22 蛭除け地蔵尊 南矢代

更新日:2020年06月25日

其の二十二●蛭除け地蔵尊 ■南矢代

今から百六十年ばかり前のこと、大沢村から当野村へかけて広がる田地では、ほとんどが泥田だったので、ものすごく沢山の蛭がすみついていました。蛭というのは、動物や人の血を吸って生きているのです。
春になると、大勢の女の人が、田植えに精を出していましたが、蛭のいない村から嫁いでで間もないお嫁さんは、田に足を踏み入れるなり「キャー」と悲鳴を上げ、畦へ跳んで上がる始末です。足にはもう蛭が食いついていると言う有り様でした。
足はもとより、田植えする手まで食いつき、血を吸うので、余りにもたくさんの昼に、村の人たちは困り果て、何か良い方法はないものかと口々に話しておりました。
そんな折、大沢村の庄屋さんの杉本直右衛門さんは、風の便りに船井郡殿田の曹源氏という寺に戒誉和尚という禅僧がおられ「蛭除けの秘法」を知っておられると言うことを聞き、早速殿田まで出向き、戒誉和尚より秘法を教えてもらいました。
このことを村に持ち帰った直右衛門さんは、沢山の蛭に困っている十ヶ村の村の役員一同に会合するように働きかけ、その席で「蛭除の秘法」を伝えました。
「蛭除の秘法」というのは、先ず石造りの地蔵菩薩を建立し、この菩薩を蛭除け本尊とする。次にこの菩薩に、わざわい蛭を除いてお守り下さるように願い、お祈りをするというものでした。
これを聞いた村の役員一同は、大賛成をし、建立場所を相談した結果、十ヶ村の田地が見渡せる矢代村(南矢代)の字「石ヶ坪」の山裾の通路の上で、三尺五寸四方に決定しました。けれども、菩薩を建立するといっても、勝手に建てるわけにはいきません。藩のお許しがいるのです。そこで、十ヶ村の役員それぞれが印判して「蛭除け地蔵尊建立願い状」を南組の代官宛に差し出しました。
代官様のお許しが出たので、早速「石ヶ坪」の山裾に、通路より何段かの石段造り、蓮花台の上に、地蔵菩薩像がまつられました。それは、地蔵にはめずらしい半跏像です。台石正面には「地蔵菩薩」、右側面には「大沢村、同 新村、初田村、犬飼村、矢代奥村、同 口村」、左側面には「矢代新村、波賀野村、栗栖野村 文政十三年 三月吉日」と刻まれています。
十ヶ村の人たちの願いを込めたお地蔵様は、立派に建てられました。蛭除け地蔵の開眼供養は、曹源寺の戒誉和尚を招き、村の人たちも大勢参列し、厳かに行われたということです。
お地蔵様をお祀りしてからは、蛭は次々に退散し、今ではこの広い耕地に一匹の蛭も見あたらないということです。
このお地蔵様は、現在、頭部は壊れてなくなっていますが、赤いよだれ掛け、線香、お花などが供えられ、今もお参りされています。