23 不破数右衛門正種 古市

更新日:2020年06月25日

其の二十三 ●不破数右衛門正種 ■古市

赤穂浪士不破数右衛門正種は、赤穂藩士岡野治太夫の子としてこの世に生を受けました。
その後、断絶していた不破家の養子となり、同藩士村松喜兵衛の娘くにをめとり、二人の子供をもうけましたが、数右衛門、不祥事を起こしたがために流浪し、江戸に浪人として、暮らすことになりました。
江戸城松の廊下で、浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷に及んだ事件の後、内匠頭は切腹、領地御召し上げとなり、赤穂藩の藩士達はことごとく離散してしまいます。
このとき数右衛門の実父岡野治太夫はすでに隠居しており、播磨亀山に移り住んでおりましたが、実妹熊女の婚家である古市の鍵屋という酒屋を頼り、治太夫夫婦と数右衛門の二児がともに一時世話になることになります。そして、その後さらに、熊女の娘の婚家である古市宗玄寺に身を寄せることになります。
数右衛門は、浅野内匠頭の恩に報いるため、ひそかに復讐の一味に加わり機会を待っていましたが、その前に一目両親や愛児に会いたいと思い、人目を避けて宗玄寺を訪れました。数右衛門は、宗玄寺にほど近い不来坂峠まで来たところで、近くの村人を使いに立てます。来訪を伝え聞いた数右衛門母は、村はずれまで出て来て数右衛門と二人の子を対面させます。そして寺へ引き返し、自分の白無垢の下着を取り出し、その裾を絶って襦袢とし、いくばくかの銭を持って数右衛門のところに戻ります。母は、
「もし、復讐の挙あらば、この襦袢を着て、母と二人の働きをなすように」
と、彼にこの襦袢を贈り、尽きぬ名残を惜しむのでした。
数右衛門はそのまま江戸へ帰り、復讐の当夜を迎えることになりました。
一味が蕎麦屋に集まって各自白装束をする際、数右衛門が母より贈られた襦袢を着るのを見た同士の大高源吾は、その由来を聞き感銘して、襦袢の背に白居易の一句を書き記します。
松樹千年遂是朽 槿花一朝 自 為栄 源吾書
数右衛門は、元禄十五年十二月ついに本望を達し、泉岳寺に引き上げたのち、松平隠州公邸に御預けとなり、十六年二月四日に切腹して果てました。行年三十四歳、「刃観祖剣信士」の戒名がおくられ、その後泉岳寺に葬られました。
自刃に先立ち、松平公より特に遺言が認められ、襦袢は母に、小刀は長男大吾朗に、また笄(こうがい)は長女つるにと遺言され、後に松平公の家来により宗玄寺の遺族に寄せられました。遺された大吾朗は出家して、篠山町の大膳寺(禅宗)に入り、その後三河の永昌寺へ移ったということです。また、つるは長じて、神戸御影の真宗寺院「照明寺」へ嫁ぎました。数右衛門の遺品は、明治になって行方が分からなくなりました。白襦袢の複製のみが、現在に残されています。