24 三草合戦 不来坂

更新日:2020年06月25日

其の二十四●三草合戦 ■不来坂

全軍一万人あまりの精兵を引き連れた源義経は、平家を一ノ谷に攻めようとして元暦二年二月四日の朝、京都を出て丹波路から播磨の三草という山にむかって進みました。 その途中、城北村の丘に登り横笛を吹き、この笛を薬師堂に奉納したそうです。その丘(篠山鳳鳴高校のあたり一帯)を笛吹山と名付け、このお堂の薬師如来を「笛の薬師」と呼ぶようになったと言われています。
城北村から城南村の勝村(現小枕)の春日神社前を乗馬のまま乗打ちしたため、馬が動かなくなったので、鞍を奉納して謝罪し、戦いに勝つようにお祈りをしたということです。又、馬口池で馬に水を飲まし休みました。やがて、義経は古市村から、今田村へ越す岬にさしかかりました。義経の考えでは、平家の軍がきっとここにいるに違いないと思ったのに、一人もいなかったので「平家来ぬ坂」と言いました。それからこの峠を「不来坂」というようになったと伝えられています。
又、もう一つの言い伝えでは、義経が来る少し前に都から逃げて来た平家軍が、ここまでくればもう追手も来ないだろうといって「源氏来ぬ坂」といったとも伝えられています。 また、古市の住山に「集」という所がありますが、ここは義経が兵を集めた場所だったということから、いつのころからかこの地名がついたといわれています。
義経がこの坂を越えて今田村の小野原についた頃には、もう日も暮れてしまいました。けれども、この先の播磨の三草山の西には平家の軍勢が三千人ばかりいるというので、ここよりずっと進んで夜討ちにしようということになりましたが、道が暗くて、どうしても進めませんでした。それで、松明のかわりに小野原の部落に火をつけて、その明かりで進みました。
三草の西にいた平家は、どうせ戦いは明日のことと油断して寝ていましたが、真夜中に義経軍が一万人ばかり攻めてきましたので、平家は驚いたり、あわてたり、騒いだり
して、取るものも取らず、味方の同士打ちなどしてさんざんに討ち敗られてしまいました。 これを「三草合戦」といい、義経はなお追いかけて一ノ谷の鵯声越に向かったのです。