27 油井城(尾の上城) 油井

更新日:2020年06月25日

其の二十七●油井城(尾の上城) ■油井
油井にある油井城は、天神川と武庫川に挟まれた要塞堅固な城でした。
城は、南は日出坂峠を超えて攝津国、西は、小野原峠を超えて播磨国、北と東は丹波国に通じ、非常に重要な位置に築城されていました。
この城の城主は、酒井佐渡守重貞と言いました。このあたりには、当野、矢代、栗栖野、初田、波賀野といった村があり、それらを酒井の庄と呼んで、それぞれのところに、酒井主水氏治、酒井菊夜叉丸、酒井筑後守などの大将を置き、これらを酒井党といって一つの集団となりお互いに守りあって暮らしていました。
この酒井党は、承久の乱(一二二一年)によく戦ったほうびとして、酒井兵衛次郎正親が将軍からの多紀郡酒井庄をもらって住んだのが始まりです。それが年数が経つにに連れてだんだんと分かれ、あちらこちらの村にその一族が移り住み、それが酒井庄一体の勢力となって、酒井党としての武士の集まりに成長したのです。そしてその集まりは、八上城主波多野秀治の大切な武士団となりました。
このように、酒井一族やそれと波多野秀治が強く結び合っていたことは、高仙寺というお寺へ、矢代、油井、初田、栗栖野の四人の酒井姓の城主が、それぞれ米を十石ずつ供えたことや、また波多野秀治が天正四(一五七六)年に、油井と矢代のお宮へ社田として一反の田を寄付したりしているのをみればよくわかります。
天正五(一五七七)年から天正六年にかけて、波多野秀治と明智光秀との戦いが繰り広げられる事になります。
この戦いの中で、酒井主水氏治は與左衛門という家来の武士に、籠城についてよくがんばったお礼の感謝状を出しています。
一方油井城では、酒井佐渡守重貞の子で長男の上野介秀正が中心となって奮戦したことが伝えられています。次男の伊豆守は二階堂秀香と名前を変え、大路城の城主となりますが、秀治が死んだ後、大路城を焼いて、残った丹波の兵を八上城に集めてその総大将となり、全員討死するまで戦い抜いたということです。油井城の酒井佐渡守とその長男の秀正も最後は討死しましたが、三男に彦右衛門という人が居て、八上城落城後、農民となって油井の地に残ったと伝えられています。その子孫はそれからも酒井を名乗り、江戸時代には油井村の庄屋となったそうです。
この酒井家には、先祖から伝えられてきた立派な刀が残されていましたが、これが油井城城主の末裔の証であると昔から言われています。