30 明智光秀の埋蔵金 追入

更新日:2020年06月25日

其の三十●明智光秀の埋蔵金 ■追入

明智光秀が織田信長の命をうけて丹波攻めしたのは、今から約四百年前の天正三年から七年にかけての二度に及んでいます。
ニ度目の天正六年には、氷上郡と多紀郡の境である金山の山頂に一夜のうちに金山城を築城したと伝えられています。
ある時、城中より出た光秀は、宿場町としてにぎわっている追入の一軒の宿屋に入り、主に書くものを求めると、主人は真新しい鍋ふたを差し出しました。
すると光秀は矢を持って
金山の 尾の尾の先の尾の先に
朝日照らす木のもとに
小判千両 有り明の月
という歌を書いて帰城しました。
後の世になってそのことを知った里人たちは、その鍋ぶたに書かれている歌こそが光秀が黄金を埋めた所に違いないと大騒ぎになったのです。
「朝日照らす気」というのは、白南天に違いないと白南天をさがす者、穴を掘って壷に入れているはずだからその上を歩くと音が変わっているに違いない、とさがす者などが出ました。
金山城周辺に伝わった光秀の埋蔵金のありかを示す歌は、この他にも宮田地方には
夏栗の 尾の尾の先の尾の先に
黄金千両 有明の月
として伝わり、草山地方には
朝日射す 夕日輝く花の木のもとに
黄金千両 細縄千ひろ
として伝わっています。
光秀の埋蔵金説は、金山城から尾根を伝って夏栗山、三尾城、さらには草山の細見城へと伝わったのでしょうか。
こうした言い伝えは、つい最近まで、子供達がハイキングに金山に登る時にはいつも話題になっておりました。