32 和泉式部の伝説 大山宮

更新日:2020年06月25日

其の三十二●和泉式部の伝説 ■大山宮
平安中期の女流歌人として有名な和泉式部は、ある日、丹後の文殊へ旅をしました。式部は、旅をしている間に、大変すぐれた人に出会い、その人と恋に落ち、子供を宿しました。
式部は、子供を身ごもった事大変恥ずかしく思って、乳母である友武に相談しました。
「神からさずかった小さな生命を粗末にしては行けません、がんばって元気な子を生みなさい。」
となだめられました。
友武は、式部を自分のふるさとである大山宮に連れてきました。式部は子の大山の地でとても可愛い女の子を産みました。しかし、式部は、世間体を気にし、恥ずかしく思い、元気で生まれた赤ん坊を追入の坂に捨ててしまいました。
その夜、式部は文殊菩薩にその事を諭される夢を見ました。
あくる日、乳母の友武が、捨てられた式部の子を拾いに行きますと、白いひげを長く伸ばしたおじいさんが出てきました。
おじいさんは、
「この子は文殊の化身であるぞ。慈愛を注いで育てよ。」
と、言って姿を消しました。
式部は、この女の子に「加祢」という名をつけ、乳母の友武にあずけて京へ帰って行きました。母と子が泣きながら別れたところが、追入と大山宮の境の大乗寺川に架かる橋で「別れじの橋」と言われているところです。
母と別れた加祢は、日一日と美しい少女に育ちました。和歌の才能も大変優れており、七歳の七夕の日に、二首詠んで着物を賜りました。加祢は、ますます顔かたちとも美しく成長して行きます。
式部が再び友武の家に来て泊まりました。このとき、式部が和歌を詠んだところ、加祢は自分の母であることも知らず、塀の向こうで式部の和歌を批判しました。
式部は、あくる日、加祢が自分の娘であることを告白しました。別れ別れになっていた式部と加祢は手を取り合い大変よろこんで、母子そろって京へ帰って行きました。
京で二人は楽しく暮らしましたが、いつの頃か、また、大山の地に戻ってきて、加祢は尼になったと言われ、また、式部も尼になってこの大山の地に住んだと伝えられています。
その母と娘の墓が今も村に残され、村の人々によって祀られています。
今の地名「鐘ヶ坂」は、「加祢ヶ坂」、また、「金井畑」は「加祢居畠」からとられたと言われています。
加祢は、後の「小式部内侍」といわれており
大江山 生野の道は 遠ければ まだ文も見ず 天の橋立
と言う歌を詠み、
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの あふこともがな
と詠んだ和泉式部と共に、百人一首に有名な歌を残しています。