33 女畷と乙女塚 野中

更新日:2020年06月25日

其の三十三●女畷と乙女塚 ■野中
城南村野中から東へ、小多田を経て西八上ヘ通じる細い道を女畷と呼んでいます。
西へは、谷山、岩崎、宇土を経て味間村へ通じた街道でした。
丹波富士と呼ばれる高城山には、波多野秀治の住む八上城がありました。
時は、天正ニ(一五七四)年、織田信長は明智光秀に「八上城を落とせ」と命じています。しかし、城は堅固で波多野勢は強く、いくら攻めても城を落とすことは出来ません。
そこで、明智光秀は「自分の母親を人質にするから仲直りしよう。」ともちかけ、波多野秀治を船井郡埴生(京都府)ヘつれ出し、講話を結び、織田信長の居城である近江の国(滋賀県)安土城にて、だまし討ちで殺してしまったのです。
波多野秀治が殺された後、いよいよ八上城落城の時がせまりました。明智の厳しい囲みを破り、女や子供たちは、城下から西へ伸びる畷道を落ちのびて行くのですが、その一団の中に、波多野秀治の幼君「甚蔵」を抱いた忠節な乳母、「一路」の姿もありました。
また、燃えあがる城を振り向き、振り向きやっとの中まで逃げてきた時、1人の腰元は波多野秀治の最後を思い、自らもおめおめと生きながらえられようかと、その場で自害してしまいます。
この腰元を葬った所を「乙女塚」と言い、乳母や腰元たちが落ちていった道を「女畷」と呼ぶようになったということです。