和泉式部の伝説(大山)

更新日:2020年06月25日

夕焼けを背に去っていく人が描かれた絵

平安中期の女流歌人として有名な和泉式部は、ある日丹後の文殊へ旅をしました。旅をしている途中、大変すぐれた人に出会いその人の子どもを宿しました。大きなおなかで旅することはできません。乳母である友武に相談しました。
「神からさずかった小さな命を粗末にしてはいけません。がんばって子どもを産みなさい。」
と、なだめられました。
友武は、式部を自分のふるさとである大山宮に連れてきました。式部はこの大山でとてもかわいい女の子を産みました。
式部はこの女の子に「加祢」という名前をつけ、乳母の友武に預けて、京へと帰っていきました。母と子が泣きながら別れたところが追入と大山宮の境の大乗寺川にかかる橋で「別れじの橋」と言われ、加祢と別れた坂を「加祢が坂」と言われています。
母と別れた加祢は、日一日と美しい少女に育っていきました。和歌の才能も大変すぐれており、七歳の七夕の日に二首詠んで着物を賜わりました。
式部が再び友武の家に来て泊まり、この時、加祢に自分の娘であることを告げました。別れ別れになっていた式部と加祢は手を取り合って喜び、母子そろって京へ帰っていきました。
加祢は後の「小式部の内侍」と言われ、
大江山 生野の道の遠ければ まだ文も見ず 天の橋立
という、歌を詠み
あらざらんこの世の外の思い出に今ひとたびのあふこともがな
と、詠んで和泉式部と共に百人一首に有名な歌として残されています。