白馬の半左衛門(福住)

更新日:2020年06月25日

火事で燃える家々とそれを人々が見ている絵

江戸時代の中頃、福住に白井半左衛門という庄屋さんがおりました。頭もよく、気が強く正直な人でした。そのため、自分がよいと思ったことは誰にも相談せず、すぐ実行する人でした。
そのころ、天候が悪く米ができず、農民は何度も強訴を起こすほどでした。半左衛門は、木川の上流から溝を掘って、福住の家々の前を流す工事をはじめました。もしも、火事の時には、消火の役にも立つし、色々便利だと考えたからです。
ところが、それを知った大庄屋は上役にも相談せず、勝手なことをしたというので、篠山藩へ訴えました。藩では、大庄屋をないがしろにすることは、つまり藩を恐れぬものだと言うことになり、奉行所の判定で半左衛門に死罪を申し渡しました。
刑場に立った半左衛門は、
「村人たちのために、喜んでもらえると思ってしたことが、こうなれば仕方がない。しかし、我が一念は今に見ておれ、災害のあったときに思い知るであろう。」
と、言って享保16(1731)年12月25日に死んでいきました。半左衛門が言ったとおり、それから17年後、寛延元(1748)年に大火が起こり、福住の町52軒が次々に焼けていきました。その猛火の中に白馬にまたがった半左衛門を見たという人が何人もあり、大騒ぎになりました。そこで町の人たちが相談して、半左衛門の供養塔を建てその霊を慰めることになりました。しかし、それから51年目に9軒が焼け、さらに10年後には、83軒、町中が全焼するという災害が起こり、明治14年(1981)にもまた大火がありました。町の人々は禅昌寺の境内にある供養塔に四季の花を供え、今もいましめあって火の用心につとめています。