八上城の危機を救おうとした四十九院の修業僧(曽地)

更新日:2020年06月25日

大きな穴の前で膝まづく僧が描かれた絵

明智光秀は、織田信長の命令で、丹波の国八上城を奪い取ろうしました。天正7(1579)年6月20日、八上城を囲み食べ物と運ぶ道をふさぎ、兵糧攻めにしようと考えました。ここ数日もすれば兵糧はなくなるので城から二人、三人と逃れて出てくる者があるだろうと監視の目を光らせていました。
ところが、十日たっても二十日たっても、一人も出てきません。不思議に思った明智軍は八方に探りの手を伸ばし見張っていました。
その時、曽地村の寺々から、山の尾根づたいに兵糧を運ぶ修業僧を見つけ、取り押さえました。
明智光秀は、怒って放火隊をくり出して、まず四十九院に火を放ち福山寺から真如坊、長福寺、池の坊、観音寺と次々に焼いていきました。何分、民家とちがって寺はどの寺も大屋根ですから、炎は天を焦がし、猛煙が立ち上りました。明智軍は、寺寺から兵糧を運んでいたお坊さんの首を次々にはねて、その場に掘った穴の中へ葬りました。
四百有余年もの昔の出来事ですが、八上城の危機を救おうとしたお坊さんの霊を慰めるため、今も、曽地の人々の手によって、四季の花が供えられ、線香の煙が立ち上っています。
八上城の武士たちは、天正七年八月九日八上城から打って出て、全員戦死しました。しかし、八上城城主秀春の次男甚蔵は乳母に抱きかかえられ味間へ落ちのびました。その後、波多野定吉と名を改め、篠山藩の役人となりました。