「網掛(あがけ)」

更新日:2020年06月25日

篠山川の中流域、住吉台の東に位置する地域にあります。古くは中吹村(なかふきむら)といわれていたようです。「ある人曰く、大沢(おおさわ)の水溜る時、中吹のもの漁をなし網を西山にかけて干す、これより俗に網掛の村といふ」(丹波志)との記述があります。
地質学的に究明していきますと、大昔、篠山の地形ができてから、長い間の雨水の侵食によって多量の土砂が流れ出て、大沢あたりで南へ流れる川をせき止めることになったらしいのです。そのため、排水不良から「篠山湖」が生まれたといわれています。
当時の「篠山湖」は、満々と水をたたえた広大な湖というよりも、所々に陸地が顔を出し、葦が生い茂った湿地帯が連なっていたと考えられます。そういう風景の中で、人々は「漁をなし、網をかけた」のどかな生活が営まれていたのでしょう。砂岩の小石に穴をあけ、網に使用された石の錘が出土していることからもうかがえます。
今から約1万5千年前、ついに尾根の低い部分を越えて、大山地区の大滝、小滝から川代峡谷に流れるようになり、篠山盆地ができたのです。この出来事を「竜を退治した話」として、ひとつの民話が伝えられています。
「昔、昔、大昔。多紀郡がまだ一面に水をたたえて、大きな湖だったころのことです。湖の底に一匹の大きな竜が住んでいました。この竜がたびたび出てきて、人の命を取るので、たいへん困っていました。ある日、とても力の強い神様が、この大きな竜の頭をねらって、たった一矢で射殺してしまわれました。湖水は、竜の血で真っ赤になりましたが、それからだんだん水が減って、みんな安心して住めるようになったということです…」。神様が矢を射たのは、川代を掘り割る大工事のことで、この大工事によって、湖水が一度にひいて、真ん中に篠山川が残りました。つまり、竜が姿を現したのです。

(参照図書) 丹波志、多紀郷土史考、丹南町史、兵庫県学校厚生会編「郷土の民話」
兵庫県文化財保護指導委員 大路 靖