「北(きた)」

更新日:2020年06月25日

篠山の中心、お城の南にあるというのに「北」村とは…。どうやら、お城ができる前からあった名前らしゅうございます。
その昔、鎌倉時代には、国の役人である国司の支配を嫌って、多くの荘園が生まれましたそうな。このあたりは、京都仁和寺の末寺である法金剛院の荘園でございました。仁和寺の管理となりますと、その本家は皇室ということになるわけでございます。「篠山領地誌」という書物によりますと、「南ノ荘 篠山ヨリ南 池上、北村、野中、小多田、小枕これを南ノ荘と謂う也」と記してございます。
篠山川と小枕川の合流点にあるこの村は、「南ノ荘」の最も北に位置したため、「北」村となったようでございます。また一説には、野中村の北部一帯が分かれて、「北」村が生まれたことによるとも申されております。当時の野中村には、「野中御園」という地名が残されているのも、何かしら奥ゆかしい気がいたします。
この北村には、天文年間(1530~1550ごろ)古い館があって、渋谷監物という武将の館でございました。北村から南新町まで篠山川をまたいでかかる橋を、「監物橋」というのもうなずける話でございます。また、消防署の西にかかる橋を「尾根橋」と申しまして、その下を尾根川がゆるやかに流れております。「尾根川」という名は、もうなくなってしまいました「尾根川村」の名残りなのでございます。
このあたりの田畑は水にも恵まれ、それはそれは肥沃な土地でございました。おいしいお米がとれるため、収穫が済むと、そのほとんどを貢米として藩に取り上げられてしまうのが常でございました。ついに村人は愛想をつかし、とうとうだれも田を作らなくなったのでございます。しかたなく、田畑を等しく区分し、「分け田」と申して各自が作ることになったのでございましたが、この田1枚売るのには、酒5升もつけて、ただでなければ買い手がつかなかったそうでございます。何ともはや、やりきれないお話ではございませんか…。

(参照図書) 多紀郷土史考、丹南町史、角川日本地名大辞典
兵庫県文化財保護指導委員 大路 靖