「八上(やかみ)」

更新日:2020年07月01日

八上の風景写真

石見国(いわみくに)(鳥取県)の出身と伝えられる波多野氏(はだのし)は、室町幕府(むろまちばくふ)の細川勝元(ほそかわかつもと)に仕えていました。当時、各地の戦乱に戦功(せんこう)を挙げ、恩賞(おんしょう)として「八上」の地を与えられ、住むようになり、出身地の名をつけて「八上」と呼ぶようになりました。また、一説には、応仁の大乱で戦功を挙げ、八上の地を与えられた波多野氏は、自分の出身地、石見国の「八上郷(郷)」の地名で呼ぶようになったともいわれています。
高城山の山麓(さんろく)は、藤ノ木坂を界に、東と西に長いゆるやかな坂が続いていますので、古くは「長坂村(ながさかむら)」と呼ばれていました。また、山の名が朝路山(あさじやま)でしたので朝路村とも呼ばれていたようです。
このように、幕府から守護(しゅご)や地頭(じとう)として、各地に遣(つか)わされた武将が、自分の出身地の名を付けた例は多くあります。
例えば、垣屋城(かきやじょう)の波々伯部氏(ほほかべし)は、辻の淀山城(よどやまじょう)から分家していますが、その菩提寺(ぼだいじ)の「安養寺(あんようじ)」の名を、村名としていました。この村は、戸数が少なかったため、垣屋村に統合されました。
これらの地名から、その土地の歴史を知る手がかりになります。特に「小字名」(坪名とも)を調べてみますと、思わぬ発見があるものです。一度、身近な小字名を調べてみてください。

丹波史懇話会会長 中野 卓郎