「後川(しつかわ)」

更新日:2020年07月01日

後川の風景写真

平安時代に書かれた和名抄」(931~938)に、多紀郡八郷は、草上、真継、河内、神田榛原日置と余戸郷となっています。それらの一つひとつの郷の範囲は、明確ではありませんが、後川地域は、余戸郷であったと思われます。
それは、50戸を1単位の郷として、不足する個数のところを余戸郷としたのです。ところが、その後の後川は、東大寺を維持するため、天平20年(748)に造られた丹波では最も古い奈良東大寺の荘園でした。
奈良時代の「東大寺要録」には、天暦4年(950)11月「庄田二十二町四段百歩」とあり、長徳4年(998)には、「庄田二十八町三段二百五十六歩」と書かれていますので、約50年間に6町歩を開墾しています。
当時は、「後河」と書かれています。これは、武庫川の支流、羽束川の上流に位置する後川の土地は、周囲の山々に囲まれた後に、川が流れているので、「尻川」というべきところを「シッ川」といい、後の字をあてたという説があります。また、羽束川の最上流に位置するため、天王(豊能郡能勢町)に対して、尻川になるので、尻を後にかえて、「後川」になったともいわれています。
後川の「シツ」は、「しり」が転訛した末端という意味で、羽束川の上流にあたることを示す地名といわれています。川の上流を「後川上」と呼び、下流を「後川下」、上と下の間をしつかわなか「後川中」といい、また羽束川支流の奥川の奥を「後川奥といっています。

(参照図書) 角川日本地名大辞典
丹波史懇話会会長 中野 卓郎