「福住(ふくすみ)」

更新日:2020年07月01日

福住の風景写真

「福住(ふくすみ)」は、篠山市の最東部に位置し、京街道(国道372号線)と、若狭(わかさ)街道(国道173号線)が交差する重要な土地でした。
そのため、古代の山陰道(さんいんどう)が通っていました。
旧福住村の西部には、「延書式小野駅(えんぎしきおのえき)」が設けられていたほどです。
この重要な土地「福住」の地名が、最初に出てくる文書は、「永享(えいきょう)以来御番(おんばん)帳」や「応仁武鑑(おうにんぶかん)」で、「仁木兵部太夫成長(にきひょうぶだゆうなりたけ)、丹波福住一万五百石」と書かれています。この仁木氏は、福住中央部の南にある「桂山(かつらやま)」を背に、仁木城を築き、また北の「白尾山(はくびさん)」には籾井氏が籾井城を築いて、お互いに括抗していましたが、仁木氏が縁故を頼(たよ)って、四国へ移っていきました。その後は、籾井氏が福住を領有することになりましたが、古くは「福泉(ふくずみ)」と呼んでいたのです。
福泉家文書(元籾井氏、東京在住)には、「本城者福泉村之城而、安口村之城者枝城而候(ほんじょうはふくずみむらのしろにて、はだかすむらのしろはえだじろにてそうろう)…」と書かれています。)
江戸時代には、「福住組」と呼ばれていました。その後、1890年の町村制施行で「福住村」となりました。
今、福住の地名は、大字名として「福住上」「福住中」「福住下」や、福住小学校、福住幼椎園、福住郵便局、福住駐在所、福住本陣(ほんじん)跡等の名前で残っています。

(参照図書) 角川日本地名大辞典、福泉家由来書(ゆらいしょ))
丹波史懇話会会長 中野 卓郎