32.八百里城跡

更新日:2020年06月23日

瀬利バス停から徒歩約10分

瀬利から奥畑への左側に、八の字形をした美しい姿の八百里山(442メートル)がある。古代よりこの山は、神が鎮座する神奈備山として崇敬された。
「八百里山城」(矢尾利城)はこの山上にあって、延元元年(1336)に畑能道が最初に築城したという。室町時代初期には畑荘の事実上の領主となった。細川満国、持春父子も拠点にしたと考えられる。その後、天文年間(1532~55)末のころ、城主畑牛太郎守綱が大改修したものであろう。
城跡は、山頂に本丸の遺講の土塁があり、北西へ二段、南東へ六段の曲輪跡が連なり、家中の台と呼ぶところが城主の屋敷跡と伝えられる。
天正7年(1579)5月初め、波多野氏の部将であった城主畑牛之丞守能は、明智の大軍に攻められ、数日間の激戦の後落城し、守能の長男守国、二男能国は戦死した。守能は母子(三田市)の永沢寺に逃れ、仏門に入って、老牛と称したといい、また、高野山に入山したとも言われる。

「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年8月発行)より
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