49.歩兵第七十連隊跡 (23)

更新日:2020年06月23日

産業高校前バス停から徒歩すぐ

篠山町の中心街から郡家通を北へ、歩いても10数分のところに、約35ヘクタールもの広大な地域を占めて、「歩兵第七十連隊」が置かれていた。
明治末期から始まった軍拡の勢いにのって、激しい誘致運動の結果、明治40年9月、歩兵第七十連隊の設置が決定され、翌41年3月、大阪で編成した約1000人の将兵が篠山に移動して開設された。
それ以来、昭和20年の敗戦まで38年間にわたって、延べ10万人を越える若者たちがその営問をくぐった。兵士は多紀・氷上郡の丹波を中心に、神戸・阪神間など兵庫県南東部一帯と大阪の一部からも集められ、都会兵と田舎兵が混在し、日本陸軍の縮図と言われた。背後の盃ヶ岳や多紀連山を舞台にした山・野戦の訓練は厳しいもので「丹波の鬼連隊」と呼ばれるほど勇猛果敢な部隊であった。
日中戦争から太平洋戦争へと泥沼化の戦況とともに、本隊は、歩兵第七十連隊から歩兵第百七十連隊、歩兵第二百十六連隊、中部第六十八部隊、中部第百十部隊などと名称が目まぐるしく変わり、派兵された将兵の多くが戦死した。
敗戦後は、県立篠山農業高校(現・産業高校)や県立兵庫農科大学(神戸大学農学部に移管のうえ移転)など学園地帯として生まれ変わったが、現在は、練兵場も含めて、高校・工場・官公庁や県立丹波総合スポーツセンター等に利用されている。
高校の東に道路に面して、煉瓦積の古びた営門がそのまま残され、その中に記念碑が建ち、ずーっと奥に旧兵舎の一部が見える。
時は流れ、世情は大きく変転した。「兵たち」をしのび、何とも言えぬむなしさを感じる。

「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年8月発行)より
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