51.伊勢三郎義盛の供養塔 (24)

更新日:2020年06月23日

産業高校前バス停から徒歩約15分

篠山産業高校の西北方山麓の集落が西浜谷で、太古に篠山盆地が湖であったころ、浜辺であった名残の地名であろう。西北部の一段高い所に「毘沙門堂」があり、その奥へ100メートルほど入った竹藪の中の台地に、源義経の四天王の一人、「伊勢三郎義盛の供養塔」という宝篋印塔(町・文)がある。高さ1.59メートル、中輪の正面に梵字が刻まれているだけで無銘であるが、室町期かそれ以前の作である。ここには、もと湧泉(遊仙)山福応寺があった。
伊勢三郎義盛は伊勢国に生まれ、上野国で義経の家来となり、一字をもらったとされる。義盛は各地で奮戦し、文治元年(1185)には壇ノ浦の合戦の後、平宗盛・清宗父子を京へ護送している。
義経は、兄頼朝と不仲となり堀川の館を出た後、文治5年に奥州衣川館の戦いで自刃するまで、約3年間消息不明の期間がある。当地出身の鷲尾三郎経春のつてで、このうち相当長期にわたって三岳修験者たちに隠まわれていたとし、その間に三郎は亡くなったとも、鈴鹿山で自殺したとも、義経とともに北国落ちして、衣川で討死にしたともいう。いずれにしても、なじみの里で供養したのだろうと伝えられている。
昔、なぜか徴兵逃れや戦死除けにお陰があると参詣者が多く、奉納した幟が何本も立っていた。

「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年8月発行)より
※地名・交通経路等は書籍発行時のもので、現在の状況とは異なる場合がありますのでご注意ください。