60.松平又四郎と血寄地蔵

更新日:2020年06月23日

辻川橋バス停から徒歩約3分

六本柳から約100メートルほど東の道路沿いの右側に、石積みの台座の上、赤い布で囲われた祠の中に「血寄地蔵」が祭られている。
篠山藩4代目の城主形原松平康信のもとに身を寄せている「松平又四郎」という甥がいた。藩主の身内をよいことに、日夜、不行状な生活を続け、領民や家中一同からも大変恐れられ、周囲の者の忠告にも一向に改まらなかった。
康信は、やむをえないと考えて、万治2年(1659)10月某日のこと、波々伯部神社へ代参を命じ、このあたりで、刺客たちにより惨殺させた。
又四郎の遺体は、篠山町八上上の「阿弥陀寺」に手厚く葬られたが、その不幸な死を哀れんだ村人たちが、暗殺された路面を清め、道端に地蔵尊を安置し、供養としたのである。
今も、いろんな思いを込めてお参りする人々の花や線香が絶えない。
その後、形原松平家は、亀山(現・亀岡市)藩主青山家と交代となり、菩提寺の「光忠寺」も移築されたが、その墓地の入口の一隅に、血寄地蔵の分身の小さな地蔵尊が北向きに祭られている。

「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年8月発行)より
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