94.白藤城跡

更新日:2020年06月23日

バスの便はなし

春日神社から約1キロメートル行くと、八ヶ尾山北麓の県道向い側、弓谷峠にかかるあたりの北山にあり、藤坂城・中馬城ともいう。明徳年間(1390~94)に新田義貞の弟脇屋義助の子尾張守義治が来住し、その子孫が築城したと言われる。
義貞・義助の兄弟は元弘3年(1333)、鎌倉に北条一族を滅し、のち、足利尊氏と戦って、越前金ヶ崎・杣山城と移り、斯波高経勢の藤島城攻撃の際、義貞は灯明寺畷で戦死し、義助は伊予で病死した。その後、上野国(群馬県)新田郡の本領で、文和元年(1352)、義貞の子義興・義宗らと義治は軍を起こし、足利基氏を追って、一時、鎌倉を占領。さらに越後に転じた。義興・義宗が討死にした後も義治は、軍勢を整えて上杉能憲と戦い、敗れて出羽、信濃と逃れ、ついに丹波に来たのである。
古書などによると、4代目の右京之進義貢が文明3年(1471)に中馬と改めて、館を構え、さらに2代後の越前守治秀が元亀元年(1570)に築城したとされる。
山上に約160平方メートルの平坦地があり、ここが本丸で、西に約2メートル幅の帯曲輪がある。その西側に約180平方メートルの平地があり、堀切が残っている。西南の山腹に階段状に二つの平地がある。南麓の土居の内と呼ばれているところは、中馬氏やその家臣たちの上村・上野・藤田・奥村氏らが居住していた区域と思われ、土塁と堀後がわずかに残っている。
治秀は波多野氏に属し、部将として活躍したが、明智光秀の丹波侵攻の際、天正5年(1577)に降伏のうえ光秀に従って、同10年6月13日、山崎の合戦で戦死したので、一族は各所に逃れ、白藤城は荒廃した。また、戦後に帰郷して旧館に住んだとも言われている。
近くの林景山長谷寺に、中馬氏の先祖脇屋義治の位牌を祭っている。

巨那院殿大史従四位下義顕里鷹大居士
応永十二年酉三月八日当家元祖脇屋尾張守義治

山間の白藤の里に隠れ、土豪となって戦国の乱世を過ごした城主や家臣たちをしのぶには、あまりにも隔世の感がする。


平安時代中期 歌人和泉式部が藤坂山を詠んだとされる歌が残されている。

「心ある人は来て見よ大くもなる
藤坂山の花のさかりを」
和泉式部

「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年(2005)8月発行)より
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